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The Kwannon -観音-

作者: 高野 真

 まったく、ツイてない日もあったものだ。

 楽勝と思っていた試験はヤマを外しまったく書けずに大敗北、春から付き合ってきた奈津子にはメールでフラれ、バイトに行こうと思ったら自転車を盗まれていた。

 女将さん、今日バイト休むって言ったらちょっと機嫌悪そうだったな。

 烏丸通りに面した小ぎれいな警察署に盗難届を出した帰り道。照りつける西日に目をすぼめながら、松原京極まつばらきょうごくの商店街をとぼとぼと歩いていく。車一台がなんとか通れる狭い道の両側に並ぶ、タバコ屋、理容室、肉屋、うなぎ屋、薬局、洋品店。八百屋では店のおばちゃんが買い物客に混じって井戸端会議に興じ、駄菓子屋の前では小学生たちが自転車にまたがったままアイスを頬張り、十円くじの当たり外れに一喜一憂している。いたって平和な午後である。それにひきかえ僕のこの有様はなんだ。まったくもって運が悪い。神も仏もありゃしない。

 西洞院通にしのとういん どおりとの交差点までやってきた。信号待ちをする僕のすぐ目の前をうんうんと唸りをあげながら緑色の市バスが走っていく。

 と、そのバスの向こうに石造りの鳥居が立っているのが見えた。こんなところに神社なんてあったんだ。この街にはそこかしこに神社やお寺があふれていて、注意しなければ目にも留まらないほど街の風景と一体化しているのだ。

 しかし、よく見れば築地塀がめぐらされ、鳥居の背後には唐門も控えていてなんとも威儀正しい佇まいをしているではないか。石に太字で彫られた「五條天神宮」の文字も誇らしげだ。鳥居の脇にある由緒書きによれば、平安京遷都と同じ七九四年の創建という。

 千二百年も続いている神社だ、きっと霊験あらたか、ご利益もあるに違いない。こうなったら神頼みである。奈津子は無理だとしても、せめてあの自転車だけには戻ってきてもらわないと困るのだ。龍安寺りょうあんじの近くにある大学へ行くにも、三条大橋のたもとの旅館へバイトに行くにもすこぶる便が悪い。まさか、今さらバスの定期券を買うお金もないし。

 一歩足を踏み入れると、歴史の長さとはうらはらに境内は意外なほど狭かった。というよりも、これではおもちゃ箱の隙間にねじ込まれた、ポケットサイズのボードゲームのようだ。幼稚園の園庭ほどの広さしかない。その正面と左手には八階建のマンションが立ちはだかって本殿を見下ろし、右手には商店がこちらに尻を向けて建っている。これもまた現代の京都らしい風景と言えばそれまでだが、なんだかマンションの住人に願い事まで覗かれているような気がしてならない。

 それにしてもさっきから何やらまぶしい。陽も沈みかけているというのに、いったい何が・・・ああっ!


 「で、屋根のうえ見たら観音さんがぴかぴか光ってたってか。んなアホな」

ダメだ。この人は完全に僕のことを馬鹿にしている。板場で見習いをやっている堀川さんだ。宴会場へ運ぶお膳を台車に載せながら僕は続ける。

「本当ですって。なにがこんなにまぶしいんだろうと思って見てみたら、拝殿の上に金色にかがやく観音様が立ってたんですよ。後光まで射してそりゃもうきれいで」

「寝ボケてたんと違うか。だいたいなんで天神さんやのに観音さんが出てくんねん」

「そんなの僕が知るわけないですよ。でも、お祈りしたら昨日の今日でさっそく願い事がかなったんですよ」

だが堀川さんは、さよか、良かったな、と素っ気ない返事を残したきり行ってしまった。

 堀川さんは微塵も信じていなくても、やはりあの観音様は神様か仏様か、とにかく只者ではなかったらしい。信じる者は救われるのである。

 今日旅館へ顔を出すと、早々に女将さんに声をかけられた。自転車盗られたんやてなぁ、この間は試験前やのに気張ってくれたし、これあげるさかいに新しいの買うて来よし、とぽち袋を僕に手渡した。覗くと一万円札が三枚、三つ折になって入っていた。時給九百円そこそこで働く身にとっては三万円と言えば大金、にやにやしていると今度は仲居のバイトをしている美夏ちゃんに声をかけられた。智積院ちしゃくいんの近くの女子大に通っている子で確か同い年、あまり話したことはなかったが垂れ目がちのお目々ときゅっと口角のあがったお口が可愛らしく前から気にはなっていた。話を聞けばこんど木屋町のライブハウスでお気に入りのグループがライブをやるという。一緒に来ぃひん?というデートのお誘い、断るわけもなく二つ返事でOKした。せっかくの三万円だけど、これはデート代に使わせてもらおう。ちょっといい雰囲気の店で先に食事を済ませて、それからライブ、終わったらカウンターバーにでも行こうか。そんなことを考えていると携帯が鳴った。警察からだった。どうやら僕の自転車が裏寺町の路地で発見されたらしい。パーツも盗まれず五体満足だったようで、明日、警察署まで引き取りに来てくれという話だった。それにしても、まさかいったん盗まれた自転車が見つかるとは思ってもみなかった。あの神々しい観音様にもう一度手を合わせたくなる。


 まったく、今日はなんていい日なんだ。

 女将さんからもらった三万円を胸に、今夜の美夏ちゃんとのデートに期待を膨らませながら、まったくの無傷で手元に戻ってきた自転車を押していく。

 烏丸通りに面した小ぎれいな警察署からの帰り道。照りつける西日に目をすぼめながら、松原京極の商店街を歩いていく。車一台がなんとか通れる狭い道の両側に並ぶ、タバコ屋、理容室、肉屋、うなぎ屋、薬局、洋品店。八百屋では店のおばちゃんが買い物客に混じって井戸端会議に興じ、駄菓子屋の前では小学生たちが自転車にまたがったままアイスを頬張り、十円くじの当たり外れに一喜一憂している。いたって平和な午後である。それにしても今日はいい日だ。全てはあの観音様のおかげ。神も仏も、イワシの頭も信心からである。

 西洞院通との交差点までやってきた。信号待ちをする僕のすぐ目の前をうんうんと唸りをあげながら緑色の市バスが走っていく。

 何やらいつもと神社の様子が違う。今日は神社がやけに騒がしい。境内は超満員なのであろう、押し出されてきた人々が車道にあふれ、何があったのか歓声をあげている人、携帯電話で写真を撮ろうとしている人と様々だ。放送局の中継車まで出てきていて、中華鍋のようなアンテナをつけた大きな体で道を半分塞いでいる。夕方のワイドショーでおなじみのお笑いレポーターが、独特の甲高い声で何事か叫んでいる。

 お祭りをやるという話は聞いていないし、もしやあの観音様が姿を現したのだろうか。

 居ても立ってもいられなくなって人ごみに身を投じると、

「ご覧下さいこの人・人・人!突如神社の屋根に現れた観音像を一目見ようと」「宝くじ当ててくれぇ」「イケメンの彼氏欲しい」

どうやらまた観音様がその姿を現したようで

「どうか次の会社こそ内定もらえますように」「今年こそは京都大学合格」「全身が光り輝いているという噂ですが、まだこの位置からはお茶の間に」

まるで祗園祭宵山(よいやま)の夜のように

「どうか息子の病気が治りますよう」「あ、見えます!まさしく光る観音像です!」「なんとか借金が返せますように」

人が狭い境内で押し合いへし合いしていてとても動けない。

「大きさは百五十センチほどでしょうか、全身が金色に光り、あたりを照らして」

それでもなんとか人を押しのけて

「生き別れたお父ちゃんに逢えますように」

一歩でも観音様に近づこうと

「今度は何か風に乗って飛んできます!桜です、夏の京都に桜の花びらが」

むせかえるほどの熱気に舞う桜吹雪の中を足を進めていくが

「仏様や!ほんまに仏様は居てはるんや」「南無観世音菩薩、南無観世音菩薩」

どこかで見たことのある人が、と思ったら堀川さんも来ている。

「まさにいま私は奇跡を目撃しています!お茶の間の皆さんにこの奇跡が」

観音様はなおも屋根のうえでまばゆい光と花びらを振りまいている。集まった人々はもはや半狂乱で

「救われるんや、これで救われるんや」「カネ、カネが欲しいっ」「観音像が発する光が、この境内とそこに集う人々をあまねく照らして」

私もそれに負けじと声を張り上げようとするが目の前の人に足を踏まれて

「これで次の選挙はわしの勝ちや」「彼女を殺したのは僕です、どうぞ許してください」

えっ、と思い振り返ったのと、サイドスローで何かを投げる堀川さんの左腕がしなったのとが同時だった。

 ぐわっしゃああん。交響楽団がいっせいに楽器をぶち捨てたらきっとこんな音がしただろう。鼓膜を突き抜けて脳幹まで揺さぶる凄まじい音がしたかと思うと、目の前で幾千万ものフラッシュを焚いたかのような閃光が炸裂した。全ての感覚が遠のき、ふわっと体が軽くなる。


 ばちばちと耳元がやかましい。何かが全身を叩いている。冷たい。じっとりとする。気づくと大雨の降りしきる境内でずぶ濡れになりながら突っ立っていた。先ほどまであたりに満ちていた金色の光も、桜の花びらも消えうせてしまった。目の前で誰かがぱくぱくと口を動かしている。

「・・・れ。・・・んや」

いったい何を言っているんだろう。周りの人たちも意識があるのか無いのか、虚ろな目をして口をぽかんと開けて立ち尽くしている。

「お前は帰れっ、観音さんなんてこんな所には居らんのや!」

ああ、そうか。目の前で怒鳴っているのは堀川さんだ。この人は怒ると後を引く。おうちへ帰ろう。


 昨日のあれは夢だったのだろうか。そんなことを考えながら今夜の宴会で出すお膳を台車に積んでいると、堀川さんがやってきた。無言で突き出された地元紙には、「集団催眠?百名超病院へ―下京区」の見出しが。

「しょうもないもんに引っかかりよって」

吐き捨てるように言った。

「拝殿の裏に馬鹿でかいクソトビが墜ちとったわ。俺の投げた石がクリーンヒットや。観音さんの正体見たり、やな」

クソトビって何ですか、と訊くとノスリと呼ばれる鳥なのだという。鴨川でくるくる飛んでいるトンビの親戚のようなものだそうだ。

「でも、狐や狸ならともかく、そんなのが人を化かすんですか?」

「イタチかてクソトビかて、化かすことはあるよ。古道具かてそうや。どんなもんでも魂は入ってるし、悪さをすることもある」

しかしそうは言っても、ちゃんと願い事は叶った。女将さんの三万円も、美夏ちゃんも、無傷で返ってきた自転車も。化かすにしてもいい奴と悪い奴が居るのではないのか。

「そこがお前の浅はかなところや。ボーナスは仕事よう頑張ったから出たんやし、そんな姿を美夏ちゃんは見てたんやろ。チャリかて、乗った後でわざわざ壊す奴はおらんで」

言われてみればその通りだが、そんなものだろうか。

「お前のくだらん願い事、観音さんがいちいち聞くと思うか?キリないやろ。うちの檀家にも仏さんに手ぇあわせてつまらんこと願う奴がおるし、注意してんねや」

堀川さんの実家、お寺だったんだ。そういえば、親父に無理矢理仏教系の大学に放り込まれたって言ってたっけ。なんでも弘法大師が開いた大学とか何とか。だったら尚のこと、仮にも仏の姿をしたものに石なんて投げてはいけないだろうに。

「アホ。血迷うたお前みたいな奴を諭して、正しい道へ導くのも仏に仕える者の使命や」

そう言って形ばかり合掌をすると、板場の奥へ入っていってしまった。仏に仕えるって言っても、あなたは板前になろうとしてるじゃないか。

 それにしてもこの違和感はなんだろう。何か昨日、あの大雨と一緒に大事な何かも流してしまったような気がしてならない。・・・あぁっ!

 がしゃあん。足元に色とりどりの刺身と、それを盛り付けてあった大皿の成れの果てが散らばっている。ぱたぱたと走ってきた女将さんのキンキン声が耳に響く。

「何をボケっとしてんのえ!ああもう、唐津焼の大皿・・・この分お給金から引いときますさかいになっ」

なんてことだ。これ、いくらするんだろう。きっとこの先何ヶ月もタダ働きじゃないか。

 あぁ、まったく今日はツイてない。神も仏も、ありゃしない。


クソトビのまやかしを信じてしまった彼。しかし、もし貴方が彼の立場やったら、同じように信じてしまったんと違いますか?

もしそれが自分の行動の成果であったとしても、より強い信仰の対象があれば、その信仰の成果やと思ってしまうのはよくある話ですな。

ちなみにこのお話は、宇治拾遺物語巻第二「柿の木に仏現ずる事」を下敷きに書いています。原作中では、仏が偽者であることに気づくのは右大臣・源光となっており、人々が「さすが右大臣はたいしたお方だ」と噂しあうところで終わっています。ちょっとした警句も込めて、いささかの場面、表現を付け足しました。

原文は大変短い作品なので、ぜひ読んでみて下さい。

それでは次回、京都のどこかでまたお会いしましょう。

(平成24年2月21日脱稿)


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― 新着の感想 ―
[一言] 面白かったです。 実際に信仰の深い人はほんのちょっとしたことでも「~のおかげだ」って思うことってよくありますよね。 占いにしても然りだと思います。 結局人って「~のおかげ」「~のせい」と自分…
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