第9話 その先の話
その話は、何気ない雑談の延長で出てきた。
夕方、リハビリ室の片付けを手伝いながら、篠原美和は白石恒一郎と並んで立っていた。
器具を戻し、床を確認し、いつも通りの作業。
「来月、勉強会があるんですか?」
美和が聞くと、白石は頷いた。
「ええ。外部の研修です」
「珍しいですね。長く行かれるんですか?」
「数日ですが……その先の話も、少し」
白石は言葉を選ぶように、手を止めた。
「その先、ですか」
「ええ」
美和は何気なく続きを待った。
まさか、自分に関係する話だとは思っていなかった。
「別の施設から、声がかかっていて」
白石は、それ以上の説明を急がなかった。
「まだ決まった話ではありません。
ただ、選択肢としては、考えています」
美和の胸が、わずかに詰まった。
「……そうなんですね」
それだけしか言えなかった。
白石は美和の反応を探るようなことはしない。
報告するように、事実を置いただけだった。
「この施設には、長くいましたから」
「はい」
「そろそろ、自分のこれからを考える時期かなと」
それは、ごく自然な言葉だった。
誰の人生にもある、分岐点。
けれど、美和には、その「自然さ」が重く感じられた。
「白石さんがいなくなると……」
途中で言葉が止まる。
何を言おうとしたのか、自分でも分からない。
現場が回らなくなる?
困る人が出る?
それとも――自分が?
「まだ、決まっていませんから」
白石はそう言って、話を切り上げるように器具を片付けた。
「今は、目の前の仕事をちゃんとやるだけです」
その言葉は、いつもの白石だった。
だからこそ、美和の中で何かが引っかかった。
仕事を終え、事務所に戻っても、集中できなかった。
画面の文字が、頭に入ってこない。
白石がいなくなる。
ただの可能性の話のはずなのに、
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
帰り道、神谷尊からメッセージが入った。
『今日もお疲れさまでした。
無理しすぎてませんか?』
美和は少し考えてから、返信した。
『大丈夫です』
それが本当かどうか、自分でも分からなかった。
部屋に戻り、ソファに座る。
電気もつけず、そのまま天井を見上げた。
――いなくなる。
川端敏郎の言葉が、また浮かぶ。
慣れすぎる前に。
白石は、いなくなるかもしれない。
結城は、今を生きている。
神谷は、考えなくていい距離にいる。
どれも間違いではない。
でも、同じ未来には続かない。
美和は、初めてはっきりと感じていた。
これは仕事の話じゃない。
誰かの人生の話でもない。
自分の時間の話だ。
スマートフォンを伏せ、目を閉じる。
まだ、何も選んでいない。
でも、選ばないままでいられる時間が、
少しずつ減っていることだけは、確かだった。
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