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このまま一人で生きると思っていた ―年下と年上、そのあいだで揺れる日々  作者: 無明灯


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第8話 当たり前の場所

 その日の午後、施設はいつもより静かだった。


 利用者の外出予定が重なり、フロアにいる人数が少ない。

 忙しさが一段落した、束の間の時間。


 篠原美和は、事務所でケアプランの修正作業をしていた。

 キーボードを打つ音だけが、規則正しく響く。


「篠原さん」


 低い声が、ドア越しに聞こえた。


「はい」


 顔を上げると、白石恒一郎が立っていた。

 手には、リハビリ計画の資料がある。


「小野寺さんの件ですが」

「はい」


「最近、夜間の不安が少し強いみたいです。

 リハビリの後、疲れが出ている可能性があります」


 美和は画面を切り替え、記録を確認した。


「訪問の回数、増やした方がいいですか?」

「今すぐではなくて、少し様子を見たいですね」


 白石はそう言って、資料を指でなぞった。


「本人は、あまり不安を表に出しません」

「……そうですね」


「だから、こちらが先に気づく必要がある」


 それは、指示ではなかった。

 経験から出てくる、ごく自然な判断だった。


「じゃあ、今週は様子見で、来週もう一度確認します」

「お願いします」


 それだけで話は終わる。

 無駄がなく、迷いもない。


 美和は、白石がその場を離れてから、ふと気づいた。


 ――この人と話すとき、迷わなくて済む。


 答えを出してくれるわけではない。

 でも、考える方向が定まる。


 それが、どれほど助けになっているかを、

 美和は意識したことがなかった。


 夕方、フロアで小さなトラブルが起きた。


 佐伯敏子が、夫のリハビリを見ていて、少し興奮してしまったのだ。


「無理させすぎじゃないですか?」


 声が少しだけ強い。


 周囲の職員が一瞬、動きを止める。


「大丈夫ですよ」


 白石は、すぐに佐伯の前に立った。


「今日はここまでにします。

 ご本人も、よく頑張りました」


 それだけ言って、リハビリを切り上げる。


 誰も反論しない。

 その判断が、正しいと分かっているからだ。


 佐伯は、少し肩の力を抜いた。


「……すみません」

「いえ。心配になりますよね」


 白石はそう言って、佐伯の目線に合わせてしゃがんだ。


「一緒に、様子を見ましょう」


 その一言で、場が落ち着いた。


 美和は、少し離れた場所からその様子を見ていた。


 説明しない。

 言い訳しない。

 でも、相手を置いていかない。


 ――この人は、ずっとこうやってきたんだ。


 仕事としてではなく、

 生活の一部として。


 業務が終わり、職員が帰り支度を始める頃、

 白石が事務所に立ち寄った。


「今日は、ありがとうございました」

「いえ」


 それだけのやり取り。


 美和は、ふと思った。


 神谷と話すと、肩の力が抜ける。

 結城といると、今が楽しい。


 でも、白石と話すと、

 「この先も回っていく」感じがする。


 それは安心とも、重さとも言えた。


「白石さん」


 呼び止めると、白石は振り返った。


「はい」


「……いなくならないですよね」


 自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。


 白石は少しだけ驚いた顔をして、それから、ほんのわずかに笑った。


「今のところは」


 はっきりした約束ではない。

 でも、誤魔化しでもない。


「ここは、簡単に離れられる場所じゃないですから」


 そう言って、白石は事務所を出ていった。


 一人になった部屋で、美和は椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。


 ――当たり前だと思っていた。


 この人がいることも、

 現場が回っていることも。


 当たり前は、失ってから気づくものだと、

 これまで何度も利用者の人生で見てきたはずなのに。


 自分のことになると、どうしてこうも鈍いのだろう。


 美和は、静かに息を吐いた。


 まだ何も始まっていない。

 でも、何かが確かに、ここにある。


 それだけは、否定できなかった。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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