第6話 慣れてしまう前に
その日の業務がひと段落したのは、夕方を少し回った頃だった。
篠原美和は、フロアの端にある小さな談話スペースで、川端敏郎と並んで座っていた。
テレビはついていたが、音量は絞られている。
「今日は、静かですね」
美和がそう言うと、川端は「そうだな」と短く答えた。
八十を過ぎた彼は、言葉を無駄にしない。
「こういう日も、あります」
「騒がしいのも嫌いじゃないけどな」
少し笑って、川端は窓の外を見た。
夕暮れが、施設の庭を淡く染めている。
美和は、しばらく黙っていた。
仕事として話すことは、もう残っていない。
それでも、その場を離れなかったのは、
誰かに聞いてほしい気分だったからかもしれない。
「……川端さんは」
自分でも、なぜそんな切り出し方をしたのか分からなかった。
「一人の生活、長いですよね」
「長いな」
即答だった。
「気楽じゃないですか?」
言いながら、美和は少し後悔した。
軽すぎる問いだったかもしれない。
川端は、少し考えてから答えた。
「気楽だよ」
「ですよね」
「ただな」
そこで、言葉が止まる。
美和は、続きを促さなかった。
急かさないことが、この場所では礼儀だった。
「慣れるんだ」
川端は、ぽつりと言った。
「一人でいることに。
誰かに合わせない生活に」
美和は、黙って聞いていた。
「慣れると、不便が減る。
自分のペースで、全部が済む」
それは、どこか魅力的な言葉だった。
「でもな」
川端は、ゆっくりと続けた。
「誰かと暮らす方が、勇気が要るようになる」
美和は、息を止めた。
「一人が嫌だってわけじゃない。
ただ……今さら誰かと、生活を作るのが、怖くなる」
その声には、後悔も未練も、はっきりとは滲んでいなかった。
ただ、事実としてそこにある重みだけがあった。
「若い頃はな、考えなかった」
川端は笑った。
「そのうち誰かと一緒になるだろうって。
いつでも選べると思ってた」
美和の胸の奥で、何かが静かに動いた。
「選ばなかったわけじゃない。
先延ばしにしてただけなんだ」
川端はそう言って、背もたれに体を預けた。
「気づいたら、慣れてた」
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
テレビの画面だけが、淡々と切り替わっていく。
「……川端さんは」
美和は、慎重に言葉を選んだ。
「それで、後悔は?」
川端は、すぐには答えなかった。
「後悔ってほどじゃない」
やがて、そう言った。
「ただな。
もう一度やる勇気が、なかったとは思う」
それだけだった。
美和は、それ以上聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
少しして、職員が呼びに来た。
夕食の時間だ。
「じゃあ、行きましょうか」
美和が立ち上がると、川端もゆっくりと立ち上がった。
「篠原さん」
呼び止められ、振り返る。
「一人は、悪くない」
そう前置きしてから、川端は言った。
「でも、慣れすぎる前に、考えた方がいい」
それは忠告でも、説教でもなかった。
ただ、通り過ぎてきた人間の、静かな助言だった。
美和は、軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その言葉が、仕事としての礼なのか、
個人的なものなのか、自分でも分からなかった。
事務所に戻る途中、廊下の向こうで白石恒一郎が利用者と話しているのが見えた。
低い声で、ゆっくりと。
その姿を見た瞬間、川端の言葉が重なった。
――慣れすぎる前に。
美和は足を止めかけて、すぐに歩き出した。
今日は、ただの一日だった。
特別な出来事は、何もない。
それでも、確かに何かが残っている。
夜、部屋に戻り、電気をつける。
静かな空間。
この静けさに、慣れてしまうのは簡単だ。
ベッドに腰を下ろし、天井を見上げる。
楽な場所。
気楽な生活。
それを選ぶことは、間違いではない。
――でも、選ばないまま慣れてしまうのは?
その問いに、まだ答えはない。
美和は目を閉じた。
川端の言葉が、ゆっくりと胸の奥に沈んでいくのを感じながら。
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