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このまま一人で生きると思っていた ―年下と年上、そのあいだで揺れる日々  作者: 無明灯


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第5話 今が楽な場所

 その日は、珍しく残業がなかった。


 篠原美和が事務所の電気を落とし、ロッカー室へ向かうと、廊下の向こうから足音が近づいてきた。


「篠原さん、もう上がりですか?」


 結城陽斗だった。

 制服の上にパーカーを羽織り、片手にスマートフォンを持っている。


「うん。今日は区切りがついたから」

「じゃあ、一緒に帰りません?」


 軽い誘い方だった。

 断る理由も、考える必要もない。


 二人並んで施設を出ると、外はすっかり夜だった。

 街灯の下、昼間の緊張が少しずつほどけていく。


「今日はどうでした?」

「まあまあ。いつも通り」


 それだけで会話が成立する。

 仕事の細かい話をしなくてもいい相手。


 近くのコンビニに寄り、コーヒーを買う。

 立ち飲み用の小さなスペースに並んで腰を下ろした。


「佐伯さん、元気そうでしたね」


 陽斗が言う。


「うん。穏やかだった」

「よかった。あの人、話すと落ち着くんですよね」


 深く踏み込まない言い方。

 美和はそれに、少しだけ救われる。


「篠原さん、最近忙しそうだから」

「そう見える?」

「見えますよ。いつもより、ちょっとだけ」


 ちょっとだけ、という言葉が優しかった。


「でも、無理しすぎないでくださいね」

「ありがとう」


 それ以上、何も言わない。

 励ましも、助言もない。


 それが、楽だった。


 沈黙が流れても、気まずくならない。

 スマートフォンを眺めながら、どうでもいい話をする。


「この前、休みの日に寝過ごして」

「それ、休みって言うの?」

「言います。たぶん」


 二人で小さく笑う。


 ――こういう時間を、恋って呼ぶ人もいるのかもしれない。


 美和はふと、そう思った。


 楽で、優しくて、今がある。

 先の話をしなくても成立する関係。


「篠原さんは、休みの日、何してるんですか?」


 陽斗が何気なく聞く。


「特に何も」

「それ、逆にすごいですね」


「そう?」

「僕、何かしてないと落ち着かなくて」


 未来の話ではない。

 ただの今の話。


 美和はその軽さに、安心していた。


 しばらくして、陽斗が立ち上がった。


「じゃあ、そろそろ」

「うん」


 駅前で別れる。

 手を振って、背中を向ける。


 その帰り道、美和は一人になって歩きながら、佐伯敏子の言葉を思い出していた。


 一度失敗したから、怖くなれた。


 ――自分は、怖くなっているだろうか。


 陽斗との時間は、怖さを感じさせない。

 それが、良いことなのかどうか。


 答えは、まだ出ない。


 部屋に戻り、バッグを置く。

 電気をつけると、静まり返った空間が広がった。


 誰もいない部屋。

 気楽で、自由で、何も求められない場所。


 ベッドに腰を下ろし、息をつく。


 今日も一日、ちゃんと終えた。

 それだけで十分なはずなのに。


 ――このままでいいのか。


 そんな考えが浮かびかけて、美和は首を振った。


 今は、楽な場所にいていい。

 そう自分に言い聞かせ、明かりを落とす。


 まだ、美和は知らない。

 「楽な場所」が、いつか「止まった場所」になるかもしれないことを。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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