第4話 選び直した時間
佐伯敏子の面談は、いつも少しだけ時間が長くなる。
「今日はよろしくお願いします」
篠原美和がそう言うと、佐伯は「こちらこそ」と穏やかに笑った。
背筋は少し丸くなったが、声には張りがある。
生活状況、身体の変化、困っていること。
一通り確認してから、美和は画面に視線を落とした。
「ご家族構成について、改めて確認させてください。ご主人は――」
「ええ、今は同じ施設にいます」
それを言うとき、佐伯の表情は変わらなかった。
悲しみも、気負いもない。
「最初の結婚は、若い頃でしたよね」
「二十代前半。勢いだけはあったわね」
そう言って、肩をすくめる。
「若いって、怖いもの知らずでしょう。相手のことも、自分のことも、よく分からないまま」
淡々とした口調だった。
愚痴でも、反省でもない。
「三十代で別れて、一人になって。しばらくは仕事だけしてたの」
「それから、再婚されたんですね」
「ええ。四十を過ぎてから」
佐伯は少し考えてから、続けた。
「一度失敗してたからね。次は、ちゃんと怖くなれたの」
その言葉に、美和は顔を上げた。
「怖い、ですか」
「将来のことも、別れのことも。最初から考えたわ」
それでも、と佐伯は言う。
「考えた上で、一緒にいる方を選んだの。
若い頃より、ずっと穏やかな時間だった」
美和は、ペンを持つ手を止めた。
選び直す、という言葉が、頭の中で静かに反響する。
「後悔は、ありませんか?」
思わず、そう聞いていた。
佐伯は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「後悔は、あるわよ。どの人生にもあるもの」
「でも――」
一拍置いて、はっきり言った。
「やり直せたこと自体が、救いだった」
その言葉は、強くも弱くもなかった。
ただ、時間を生きた人の実感だった。
面談が終わり、廊下に出ると、白石恒一郎が車椅子を押しているのが見えた。
佐伯の夫だった。
「今日もリハビリ、頑張りましょうか」
白石の声に、佐伯の夫は小さく頷く。
「先生、この人、若い頃は本当に無茶だったのよ」
佐伯がそう言うと、白石は困ったように笑った。
「今も、なかなかですよ」
三人の間に、静かな笑いが落ちる。
美和は、その様子を少し離れたところから見ていた。
介助でも、仕事でもない。
ただ、生活の一場面。
――こういう時間を、選び直す人もいる。
事務所に戻る途中、結城陽斗が追いついてきた。
「佐伯さん、どうでした?」
「穏やかでしたよ」
「そっか。それならよかった」
陽斗はそれ以上聞かず、軽く手を振ってフロアに戻っていった。
夕方、記録をまとめながら、美和は佐伯の言葉を思い返していた。
一度間違えたから、怖くなれた。
怖くなれたから、選べた。
それは、勢いで進んできた自分とは、少し違う生き方だった。
――自分は、やり直す必要があるほど、何かを選んできただろうか。
ふと、そんな疑問が浮かぶ。
逃げてきただけではないのか。
深く考えないことで、選ばずにきただけではないのか。
パソコンを閉じると、外はもう薄暗かった。
今日も一日が終わる。
何かが変わったわけではない。
それでも、確かに一つ、言葉が残った。
選び直せる人生がある、という事実だけが。
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