第3話 話さなかったこと
面談室は、いつも少しだけ静かすぎる。
篠原美和は、テーブルを挟んで小野寺澄江と向かい合っていた。
窓から入る午後の光が、床に細い帯を作っている。
「今日は、ケアプランの更新になります。体調や生活のこと、少しお話を聞かせてください」
美和がそう言うと、小野寺は小さく頷いた。
「ええ。もう慣れたものよ」
その言い方には、諦めでも皮肉でもない、ただの事実があった。
生活リズム、服薬状況、日中の過ごし方。
一つひとつ確認していく。
「最近、夜はよく眠れていますか?」
「ええ、だいたいは。たまに目が覚めるけど、年相応でしょう」
淡々としたやり取り。
美和はメモを取りながら、次の質問に進む。
「ご家族や、ご親族で、連絡を取られている方はいらっしゃいますか?」
一瞬、小野寺の視線が宙に浮いた。
「いないわ」
きっぱりとした答えだった。
「昔は仕事が忙しくてね。編集の仕事をしていたの」
「そうなんですね」
そこからは、少し饒舌になった。
締切の話。校正の癖。若い作家の無茶な原稿。
美和は相槌を打ちながら聞く。
こういう切り替えは、珍しくない。
だが、生活歴の欄を埋めるため、必要な質問が残っていた。
「……ご結婚歴は、なし、でよろしいですか?」
ペン先が、わずかに止まる。
「ええ。しなかったの」
間が空いた。
沈黙が気まずくなる前に、小野寺が続けた。
「後悔してないのよ。選ばなかっただけ」
美和は顔を上げた。
「選ばなかった?」
「ええ。仕事も楽しかったし、一人の生活も嫌いじゃなかった」
そこで一度、言葉が途切れる。
「ただね」
小野寺は、窓の外を見た。
「話さなかったことは、残るの」
それは、愚痴でも告白でもなかった。
事実を確認するような口調だった。
「誰かに言えば、形になったかもしれない気持ち。
言わなかったから、ずっと自分の中にあるまま」
美和は、何も言えなかった。
慰める立場でも、評価する立場でもない。
仕事として聞かなければならない。
でも、ただの項目ではない。
「……でも、それでよかったと思ってるわ」
小野寺はそう言って、微笑んだ。
「人生って、全部話さなくても、ちゃんと終わるものよ」
美和は、ゆっくりとペンを動かした。
生活歴の欄に、「未婚」と書き込む。
その二文字が、急に軽く思えなくなった。
面談が終わり、廊下に出ると、リハビリ室から白石恒一郎が出てきた。
「終わりました?」
「はい。問題はなさそうです」
白石はそれ以上聞かなかった。
聞かない、という選択を、自然にする人だった。
「何かあったら、言ってください」
それだけ言って、現場に戻っていく。
美和はその背中を見送りながら、胸の奥に残った言葉を整理しようとした。
――話さなかったことは、残る。
仕事として聞いたはずの言葉が、
いつの間にか、自分の内側に入り込んでいる。
事務所に戻ると、結城陽斗が声をかけてきた。
「小野寺さん、どうでした?」
「元気ですよ」
それは嘘ではない。
でも、全部でもなかった。
「よかったです」
陽斗はそれ以上踏み込まない。
それが、今の美和には楽だった。
デスクに座り、記録をまとめる。
今日聞いた話は、すべて仕事として処理できる。
それなのに、指が少し重かった。
――自分は、何を話さずに生きてきたんだろう。
ふと、そんな考えが浮かぶ。
美和は小さく首を振った。
今は考えなくていい。
考え始めると、終わらなくなる。
画面を閉じ、次の予定を確認する。
佐伯敏子の面談は、明日だ。
人生は、まだ続いている。
そのことだけが、今は確かだった。
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