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このまま一人で生きると思っていた ―年下と年上、そのあいだで揺れる日々  作者: 無明灯


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第19話 白石と、少しだけ踏み込む

 その日は、残業になった。


 大きなトラブルがあったわけではない。

 書類が少し多く、確認に時間がかかっただけだ。


 気づけば、事務所に残っているのは美和と白石だけだった。


「先に上がってください」


 白石が言う。


「いえ、ここまで来たので」

「無理しないで」


 その言い方は、いつも通りだった。

 命令でも、気遣いの押しつけでもない。


 美和はパソコンに向き直り、

 最後の一行を打ち込む。


「……終わりました」


 画面を閉じると、

 肩の力が抜けた。


「お疲れさまでした」

「白石さんも」


 二人で事務所を出る。

 廊下の灯りは落とされ、

 足音だけが響く。


 外に出ると、夜風が冷たかった。


「寒くなりましたね」

「そうですね」


 それだけの会話。

 それでも、並んで歩く距離が自然だった。


 駐車場までの短い道。

 沈黙が続く。


 美和は、その沈黙が苦しくないことに、

 少し驚いていた。


「佐伯さん、落ち着いていますね」


 白石が、ぽつりと言った。


「はい。

 一人になっても、生活が崩れていなくて」


「……そういう方でしたから」


 “ご主人を亡くした人”ではなく、

 “佐伯さん”として話している。


 それが、白石らしかった。


「一緒にいた時間が、

 今も続いている感じがします」

 

 美和がそう言うと、

 白石は少し考えるように間を置いた。


「終わっていない、ということですね」

「はい」


 それ以上、言葉は続かなかった。


 でも、その短いやり取りで、

 何かが共有された気がした。


「篠原さんは」


 白石が、初めて話題を変える。


「この仕事、

 この先も続けたいですか」


 不意の質問だった。


 でも、答えはすぐに出た。


「……続けたいです」


「そうですか」


 それだけで終わると思った。

 けれど、白石は続けた。


「無理のない形で、がいいですね」


 その言葉に、胸が少しだけ熱くなる。


 頑張る前提ではなく、

 続ける前提。


「白石さんは?」

「今は、ここで」


 曖昧だけれど、逃げていない答え。


「将来のことは、

 はっきり決めすぎない方が、

 うまくいくこともありますから」


 それは、助言ではなかった。

 自分に向けた言葉のようでもあった。


 駐車場に着く。


 それぞれの車の前で、立ち止まる。


「今日は、ありがとうございました」

「こちらこそ」


 ドアを開けかけて、

 美和は一瞬だけ迷った。


 踏み込むなら、今かもしれない。


 でも、

 言葉は出なかった。


 代わりに、こう言った。


「……また、明日」

「はい。明日」


 白石はそう言って、軽く頷いた。


 車に乗り込み、エンジンをかける。


 白石の車が、先に走り出す。

 赤いテールランプが、ゆっくり遠ざかる。


 美和はハンドルに手を置いたまま、

 しばらく動けずにいた。


 何も起こらなかった。

 でも、何もなかったわけじゃない。


 恋、と呼ぶには、まだ早い。

 でも、

 この人となら、

 先の話をしても、怖くない。


 その感覚が、

 はっきりと胸に残っていた。


 美和は深く息を吸い、

 車を発進させた。


 踏み込まなかった。

 けれど、

 もう、同じ場所には立っていない。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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