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このまま一人で生きると思っていた ―年下と年上、そのあいだで揺れる日々  作者: 無明灯


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第16話 白石が戻ってくる日

 朝の申し送りは、いつもと同じ時間に始まった。


「二階の小野寺さん、夜間は落ち着いていました」

「新規利用者の件、午後から面談予定です」


 篠原美和は、ノートを取りながら、無意識に廊下の方へ視線を向けていた。

 特別な理由はない。

 ただ、今日は白石恒一郎が戻ってくる日だった。


 それだけのことだ。


 研修から戻ると聞いてから、

 何かを期待していたわけでも、

 話したいことを準備していたわけでもない。


 申し送りが終わり、職員が散っていく。

 いつも通りの朝。


「篠原さん」


 呼ばれて振り返ると、

 白石がそこに立っていた。


「おはようございます」

「おはようございます」


 それだけの挨拶。

 声の調子も、距離も、変わらない。


「研修、お疲れさまでした」

「ありがとうございます。何事もありませんでしたか?」

「ええ。落ち着いています」


 それで会話は終わった。


 拍子抜けするほど、何も起こらない。

 それなのに、美和は胸の奥が静かになるのを感じていた。


 ――ああ、戻ってきた。


 それだけで、十分だった。


 午前中、フロアを回っていると、

 判断が必要な場面がいくつかあった。


 小野寺澄江の表情。

 新規利用者の歩行状態。

 看護師との短いやり取り。


 白石は、必要なところに自然に立っていた。


「今日はここまでにしましょう」

「少し休憩を挟みます」


 誰かに指示するでもなく、

 空気を整えるように動く。


 それを見て、美和は思った。


 この人がいると、

 自分は無理に頑張らなくていい。


 昼休憩、事務所でパソコンを開いていると、

 白石が書類を持って入ってきた。


「佐伯さんの件ですが」

「はい」


 亡くなった夫の名前は出さず、

 これからの生活の話だけをする。


「今のプランで、大丈夫そうですね」

「ええ。本人も落ち着いています」


 事務的なやり取り。

 感情は挟まれない。


 でも、美和は気づいていた。


 白石が、佐伯の表情を

 必要以上に刺激しない距離で見ていることに。


 ――やっぱり、この人はこういう人だ。


 午後、結城陽斗が声をかけてきた。


「白石さん、戻られたんですね」

「うん」


「なんか、空気違いますよね」

「そう?」


 結城は笑った。


「安心感っていうか。

 僕も、やりやすいです」


 その言葉に、美和は小さく頷いた。


 夕方、業務が一段落し、

 廊下で白石とすれ違う。


「今日は、ありがとうございました」

「いえ。こちらこそ」


 立ち止まることもなく、

 それぞれの方向へ歩き出す。


 それなのに、

 美和は不思議と満たされていた。


 帰り支度をしながら、

 神谷尊からのメッセージが目に入る。


『おかえりなさい、白石さん』


 それに続いて、

 結城からのスタンプ。


 みんな、戻ってきたことを知っている。

 でも、美和の受け取り方は、

 少しだけ違っていた。


 部屋に戻り、電気をつける。


 静かな空間。

 でも、昨日までより軽い。


 白石は、戻ってきただけだ。

 何も約束していないし、

 何も変わっていない。


 それでも、美和は思う。


 今日一日が、

 いつもよりきちんと回っていた。


 それは、

 恋だからでも、

 期待しているからでもない。


 ただ、

 同じ場所で、

 同じ時間を生きている人がいる。


 その事実が、

 これほど心を安定させるとは、

 少し前の自分は知らなかった。


 美和はカーテンを閉め、

 ベッドに腰を下ろした。


 まだ、答えは出ていない。

 でも、

 探さなくても戻ってくる場所がある。


 それだけで、

 今日は十分だった。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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