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このまま一人で生きると思っていた ―年下と年上、そのあいだで揺れる日々  作者: 無明灯


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第14話 最後まで一緒に

 その知らせは、夜勤帯に入ってからだった。


「佐伯さんのご主人、呼吸がさらに浅くなっています」


 電話口の声は落ち着いている。

 現場は慌てていない。

 それが、もう「その時」が近いことを示していた。


 美和は上着を手に取り、施設へ向かった。

 夜の空気はひんやりとして、頭が冴える。


 部屋に入ると、灯りは落とされていた。

 ベッドサイドの小さな照明だけが、二人を包んでいる。


 佐伯敏子は、昼間と同じ位置に座っていた。

 夫の手を握り、背筋を伸ばして。


「来てくれたのね」


 小さな声だったが、はっきりしていた。


「はい」


 美和は、それ以上言葉を足さなかった。

 この場では、説明も慰めも必要ない。


 夫の呼吸は、ひとつひとつが長い。

 間が、少しずつ伸びている。


 佐伯は、顔を近づけて話しかけていた。


「聞こえてる?」

「私よ」


 返事はない。

 それでも、語りかけるのをやめなかった。


「最初に会った日のこと、覚えてる?」

「あなた、遅刻してきたのよ」


 小さく笑う。


「でも、謝り方が真面目でね。

 この人なら、ちゃんと向き合うって思った」


 それは回顧ではなかった。

 今も続いている会話だった。


 美和は、少し距離を取って立っていた。

 必要なら呼ばれる位置。


 呼吸が、さらに浅くなる。


 佐伯は、夫の手を胸元に引き寄せた。


「大丈夫よ」

「一人にはならないから」


 その言葉は、夫に向けたもののようで、

 同時に、自分自身に言い聞かせているようでもあった。


 やがて、呼吸が止まった。


 看護師が確認し、静かに頷く。


「……ご苦労さまでした」


 誰も泣かなかった。

 誰も慌てなかった。


 ただ、時間が止まったように、静かだった。


 佐伯は、しばらく夫の手を握ったまま、動かなかった。


「最後まで、ちゃんと一緒にいられたわ」


 ぽつりと、そう言った。


 それは悲しみではなく、

 確信だった。


 美和は、胸の奥が温かくなるのを感じた。

 同時に、喉の奥が少しだけ詰まる。


 別れは、痛みだけじゃない。

 そう思えたのは、初めてだった。


 必要な手続きが始まり、

 職員たちはそれぞれ動く。


 美和は、佐伯のそばに戻った。


「今夜は、こちらで過ごされますか?」

「ええ。ここで」


 迷いのない答えだった。


「この人と一緒に、眠りたいの」


 それは願いではなく、選択だった。


 夜が更け、すべてが落ち着いた頃、

 美和は施設を出た。


 空気は冷たい。

 でも、胸の中は不思議と静かだった。


 寄り添うということ。

 最後まで一緒にいるということ。


 それは、

 失う覚悟よりも、

 共に生きた時間を肯定する行為なのかもしれない。


 部屋に戻り、灯りをつける。


 一人の空間。

 でも、今日は孤独ではない。


 佐伯の背中。

 重ねられた手。

 言葉がなくても続いていた会話。


 ――ああ、こんな未来なら。


 怖くない。


 美和は、ゆっくりと息を吐いた。


 人と生きる時間は、

 必ず終わる。


 でも、

 終わりがあるからこそ、

 一緒にいる時間は、

 こんなにも確かなのだと。


 その夜、

 美和は初めて、

 自分の未来を、

 逃げずに思い描いていた。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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