第13話 寄り添うということ
異変は、朝の申し送りの中で、ごく自然に紛れ込んでいた。
「佐伯さんのご主人ですが、夜間の呼吸が少し浅くなっています」
「今朝は食事、ほとんど取れていません」
数字は、まだ緊急を示してはいない。
医師からも「急変ではない」という判断だった。
それでも、美和はペンを止めた。
――下り坂に入った。
長くこの現場にいれば、
それが「兆し」であることは、感覚で分かる。
午前中、佐伯夫妻の部屋を訪ねると、
室内はいつもより静かだった。
ベッドに横たわる夫は、目を閉じている。
呼吸は浅く、ゆっくりだ。
佐伯敏子は、ベッドの横に椅子を置き、
夫の手を両手で包むようにして座っていた。
「おはようございます」
美和が声をかけると、
佐伯は顔を上げ、穏やかに笑った。
「来てくれて、ありがとう」
声は落ち着いている。
取り乱した様子はない。
「ご主人、今は眠っているようですね」
「ええ。さっきまで、少し話してたの」
そう言って、夫の額にかかった髪を、指先で整える。
「昔のことをね」
佐伯は、どこか懐かしそうに続けた。
「初めて会った日の話とか。
若い頃に行った旅行の話とか」
美和は、少し離れた位置でその様子を見ていた。
回顧というより、
確認に近い。
一緒に過ごしてきた時間を、今ここに連れてくるような仕草だった。
「ちゃんと、覚えてくれてるの」
「……それは、嬉しいですね」
美和の言葉に、佐伯は小さく頷いた。
「この人ね、二回目の結婚だったでしょう」
美和は、黙って聞く。
「最初の結婚のこと、あんまり話さなかったの」
「でも、この人とは、全部話した」
それは誇らしげでも、自慢でもない。
ただ、事実としてそこにあった。
「うまくいかない日もあったし、
喧嘩も、たくさんした」
佐伯は、夫の手を少しだけ強く握った。
「それでも、最後にこうやって、
一緒にいられるなら」
一瞬、言葉が詰まる。
「悪くなかったと思えるのよ」
その言葉には、
悲壮感も、諦めもなかった。
美和の胸の奥に、
静かに、あたたかいものが落ちた。
――こういう時間が、人生の先にある。
怖さより先に、
羨ましさが来たことに、美和は自分で驚いた。
「篠原さん」
佐伯が、ふと美和を見た。
「あなた、忙しいでしょう」
「……はい」
「でもね」
佐伯は、はっきり言った。
「誰かと生きる時間は、
忙しさとは別に、ちゃんと作られるものよ」
説教ではなかった。
忠告でもなかった。
未来を見てきた人の、事実の共有だった。
その日の午後、
医師とのカンファレンスが行われた。
治療よりも、
苦痛を減らす方向に重心が移る。
美和は説明をしながら、
佐伯が一度も動揺を見せなかったことに気づいていた。
準備ができている人の、静けさだった。
夕方、もう一度部屋を訪れると、
佐伯は変わらず、夫のそばにいた。
「今日は、このまま一緒にいます」
「何かあれば、すぐ呼んでください」
そう言って立ち上がろうとした美和を、
佐伯が引き止めた。
「ねえ、篠原さん」
「はい」
「未来ってね、
不安なものだと思ってたけど」
少し笑って、続ける。
「ちゃんと一緒にいられる人がいれば、
悪くないものよ」
その言葉は、
美和の中で、はっきりと形を持った。
夜、部屋に戻り、
美和は一人でソファに座っていた。
静かな部屋。
でも、昼間ほど孤独は感じない。
寄り添う背中。
重ねられた手。
言葉がなくても、共有される時間。
――将来って、怖いだけじゃない。
そう思えたのは、
この仕事を始めてから、初めてだったかもしれない。
美和は、スマートフォンを手に取った。
連絡先の一覧を、
指がなぞる。
まだ、何も送らない。
でも、逃げる気持ちだけは、
少しずつ薄れている。
誰かと生きる未来を、
「考えてしまう」ことが、
もう、怖くなかった。
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