第12話 戻らなかった時間
――白石恒一郎
研修先の施設は、よく整っていた。
動線も、書類の仕組みも、説明も分かりやすい。
職員の数も足りている。
――悪くない。
白石恒一郎は、そう思いながら説明を聞いていた。
ここなら、仕事はしやすいだろう。
「白石先生のご経験でしたら、すぐに中心になっていただけます」
担当者の言葉に、曖昧に頷く。
中心になること自体は、もう怖くない。
若い頃なら、少し前の自分なら、
むしろ求めていた立場だった。
昼休み、外のベンチに座る。
ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を見る。
特に通知はない。
――あちらは、今頃どうしているだろうか。
施設の朝。
申し送り。
何事もないようで、微妙に揺れる現場。
自分がいないだけで、
何かが大きく崩れるわけではない。
それは、よく分かっている。
それでも――
誰かが、少しだけ判断に迷う。
誰かが、少しだけ不安になる。
その「少し」の積み重ねが、
生活を支えていることも。
白石は、過去の自分を思い出していた。
仕事ばかりしていた頃。
帰りが遅くなっても、
「仕方がない」と言い続けた日々。
大事な話を、後回しにした。
そのうち時間ができると思っていた。
――そのうち、は来なかった。
気づいたときには、
隣にいる人の生活に、
自分はもういなかった。
選ばなかったのか。
失ったのか。
今でも、はっきりとは分からない。
ただ、あの時、
自分は「必要とされている場所」だけを選んだ。
家庭より、現場を。
今より、役割を。
白石は、深く息を吐いた。
だから今は、
簡単に踏み込まない。
誰かの生活に、
中途半端な覚悟で入らない。
それが誠実だと、
そう信じている。
研修の最後、
正式な打診があった。
「前向きに検討していただけますか?」
白石は、少し間を置いて答えた。
「……時間をください」
その言葉に、相手は理解を示した。
夕方、宿泊先の部屋に戻る。
簡素な部屋。
一人には十分だ。
ベッドに腰を下ろし、
またスマートフォンを見る。
通知は、まだない。
――こちらから、連絡する理由はない。
そう思う一方で、
連絡しない理由も、
はっきりとは言えなかった。
白石は、窓の外を見た。
遠くの街の明かり。
どこかで、誰かが生活を続けている。
自分が戻る場所。
戻らないかもしれない場所。
どちらも、まだ選べていない。
ただ一つ分かっているのは、
もう一度、
「必要とされるだけの存在」には戻れないということだった。
生活を、
時間を、
誰かと引き受ける覚悟がなければ。
白石は、スマートフォンを伏せ、
照明を落とした。
夜は静かだった。
その静けさが、
昔よりも、少しだけ重く感じられた。
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