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このまま一人で生きると思っていた ―年下と年上、そのあいだで揺れる日々  作者: 無明灯


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第11話 空いた場所

 白石恒一郎が不在の朝は、思っていたよりも早く始まった。


 外部研修のため、数日施設を離れる。

 それだけのことのはずだった。


 朝の申し送りは、いつも通り進んでいる。

 報告の内容も、特別なものはない。


 それなのに、どこか噛み合っていない感覚があった。


「小野寺さん、昨夜あまり眠れていないようです」

「佐伯さんは、少し食欲が落ちています」


 美和はメモを取りながら、

 無意識のうちに、白石の声を探していた。


 ――ここなら、こう言う。

 ――この場合は、様子見。


 頭の中で、いない人の判断をなぞる。


「篠原さん?」


 声をかけられて、はっと顔を上げた。


「すみません。続けてください」


 申し送りは終わり、職員はそれぞれの持ち場へ散っていく。

 現場は回っている。

 少なくとも、表面上は。


 午前中、小野寺澄江が落ち着かない様子を見せた。


「今日は、なんだか胸がざわざわするの」


 いつもはあまり訴えを口にしない人だ。


 美和はバイタルを確認し、記録を見直す。

 大きな変化はない。


「少し休みましょうか」

「ええ……」


 不安の訴えに、どう対応するか。

 すぐに判断しなければならない場面だった。


 ――白石さんなら。


 考えが止まる。


 リハビリを控える?

 訪問を追加する?

 様子を見る?


 どれも間違いではない。

 けれど、どれも決めきれない。


「今日は、リハビリを軽めにしましょう」


 美和はそう判断した。


 安全側。

 責められない選択。


 午後、今度は佐伯敏子が声を荒らげた。


「どうして、今日はやらないの?」


 夫のリハビリが短縮されたことへの不満だった。


「急な変更で、すみません」


 美和は説明する。

 理屈は通っている。


 それでも、佐伯の表情は晴れなかった。


「この人は、動けるうちに動かした方がいいのよ」


 その言葉に、美和は返せなかった。


 白石がいれば、

 もっと違う説明ができたはずだと、

 自分でも分かっていた。


 結果的に、夫は不満を抱えたまま部屋に戻り、

 佐伯も納得しないまま、その場を離れた。


 大きなトラブルではない。

 事故も起きていない。


 それでも、現場の空気は微妙に重くなった。


 夕方、事務所に戻ると、神谷尊がいた。


「今日は大変そうでしたね」

「……少し」


「白石さんがいないと、やっぱり違います?」


 悪気のない問いだった。


 美和は、一瞬言葉に詰まった。


「違う、というか……」


 なんと言えばいいのか分からない。


「判断の基準が、少しずれる感じがします」


 神谷は頷いた。


「分かります。

 でも、それって篠原さんが悪いわけじゃないですよ」


 慰めの言葉だった。

 けれど、美和の中には届かなかった。


 悪いわけじゃない。

 でも、良くもなかった。


「神谷さんなら、どうしました?」


 思わず聞いていた。


 神谷は少し考えてから言った。


「僕なら……まあ、今の判断でいいと思いますけど」


 その答えに、美和は何も言えなかった。


 正しい。

 でも、納得できない。


 それは、神谷が悪いのではない。

 彼の役割が違うだけだ。


 帰り道、美和は一人で歩きながら、

 今日の場面を何度も思い返していた。


 安全だった。

 間違ってはいない。


 それでも、

 白石がいたら、

 もっと穏やかに終わった気がしてならない。


 部屋に戻り、電気をつける。


 静かな空間。


 川端敏郎の言葉が、また浮かぶ。


 ――慣れすぎる前に。


 白石がいないだけで、

 こんなにも判断が揺らぐ。


 それは、仕事の依存なのか。

 それとも――。


 美和は、ソファに深く腰を沈めた。


 今日、誰かの人生を大きく狂わせたわけではない。

 それでも、自分の中で、確かに何かを外した感覚がある。


 空いた場所は、

 思っていたよりも、ずっと大きかった。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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