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このまま一人で生きると思っていた ―年下と年上、そのあいだで揺れる日々  作者: 無明灯


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第10話 深く考えない夜

 その日は、最初から少しだけ調子が狂っていた。


 篠原美和は、ケアプランの最終確認を終えたあと、

 自分の判断に何度も戻っていた。

 間違ってはいない。

 けれど、確信が持てない。


 ――白石さんなら、どう言っただろう。


 その考えが浮かんだ瞬間、

 自分でも驚くほど、胸がざわついた。


「篠原さん」


 声をかけてきたのは、神谷尊だった。

 外出用のジャケットを羽織り、すでに帰り支度をしている。


「もう上がりですか?」

「ええ。今日はこのまま」


 一拍置いて、神谷は言った。


「よかったら、少し飲みません?」


 軽い誘いだった。

 深い意味を含ませない、いつもの距離感。


「一杯だけなら」

「それで十分です」


 施設の近くの、小さな居酒屋。

 仕事帰りの人でほどほどに賑わっている。


「お疲れさまでした」


 グラスを合わせる音が、少しだけ現実を遠ざけた。


「最近、考え込んでません?」


 神谷は、つまみを取り分けながら言った。


「……そう見えます?」

「ええ。会議中も、ちょっと」


 美和は苦笑した。


「癖みたいなものです」

「考えすぎる癖?」


「そう」


「それ、今日は置いてきましょう」


 そう言って、神谷は話題を変えた。

 病院の愚痴、制度の変更、どうでもいいニュース。


 どれも、深掘りしなくていい話。


 気づくと、美和は笑っていた。


 結城といるときとは違う。

 白石と話すときとも違う。


 神谷といると、

 「ちゃんとしなくていい自分」でいられる。


「篠原さんって、責任感が強いですよね」

「そうですか?」

「ええ。でも、それを背負わなくていい場所も必要です」


 それは、慰めでも攻略でもない。

 ただの事実のように、神谷は言った。


「僕は、先のことは考えません」

「前にも言ってましたね」

「考えたところで、どうにもならないことも多いですし」


 美和は、その言葉を否定できなかった。


 白石の話が、ふと頭をよぎる。

 その先の話。

 選択肢としての不在。


「……将来のこと、怖くなりませんか?」


 自分でも意外な問いだった。


 神谷は少し考えてから、肩をすくめた。


「怖いですよ」

「でも?」


「だから、あんまり見ないようにしてます」


 それは逃げかもしれない。

 でも、正直だった。


「今が回ってるなら、それでいいじゃないですか」


 その言葉は、美和の中にすっと入り込んだ。


 今が回っている。

 仕事も、生活も、関係も。


 それで十分だと、

 誰かに言ってほしかったのかもしれない。


 店を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。


「送りますよ」


 神谷はそう言ったが、

 押しつけがましさはなかった。


 駅までの道を、並んで歩く。


「今日は、ありがとうございました」

「こちらこそ。少しは楽になりました?」


「……はい」


 嘘ではなかった。


 駅前で立ち止まる。


「また、飲みましょう」

「ええ」


 それだけ言って、神谷は手を振った。


 電車に乗り、窓に映る自分を見る。


 少しだけ、顔が緩んでいる。


 部屋に戻り、靴を脱ぐ。

 静かな空間。


 今日は、深く考えなくていい夜だった。


 それなのに、

 ベッドに腰を下ろした瞬間、

 白石恒一郎の声が、ふいに思い出された。


 ――今は、目の前の仕事をちゃんとやるだけです。


 その言葉が、

 なぜか神谷の言葉より重く感じられる。


 美和は、スマートフォンを伏せた。


 楽だった。

 救われた。


 でも、それが続いた先に何があるのかは、

 やはり、分からない。


 目を閉じると、

 逃げるように過ごした夜の静けさが、

 ゆっくりと胸に沈んでいった。

本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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