濡れ仏
大正十三年、秋。
京都の山懐に抱かれた古寺に、一人の青年僧が修行に入った。名を浄真という。まだ二十歳を過ぎたばかりの、頬に少年の面影を残す若僧である。
寺は決して大きくはない。本堂と僧坊、それに鐘楼があるばかりの、ひっそりとした佇まいだった。しかし創建は平安の御代にまで遡るという。千年の時が染み込んだ柱は黒光りし、瓦には苔が厚く降り積もっている。
浄真が寺に着いたのは、秋雨が煙る夕刻だった。山門をくぐると、湿った木の匂いが鼻腔を満たす。それは単なる雨の匂いではなかった。もっと古い、地の底から湧き上がるような水の気配が、寺全体を包んでいた。
「ようお越し下された」
出迎えたのは、寺の住職である老僧、慈海和尚だった。七十を超えているはずだが、背筋は伸び、眼光は鋭い。ただ、その瞳の奥に、何か言い知れぬ翳りがあることに、浄真は気づいた。
「まずは身を清め、仏前にご挨拶を」
慈海和尚に導かれ、浄真は本堂に向かった。薄暗い堂内には、本尊の阿弥陀如来が安置されている。線香の煙が立ち昇り、読経の声が低く響く。五人ほどの僧が、夕勤行の最中だった。
浄真が合掌し、頭を垂れていると、視界の端に奇妙なものが映った。本堂の片隅、他の仏像から離れた場所に、一体の石仏が置かれている。それ自体は珍しくない。しかし、その石仏だけが、全身から水を滴らせていた。
雨漏りかと思い、天井を見上げたが、染みひとつない。それに、石仏の濡れ方が異様だった。まるで内側から水が湧き出しているかのように、仏像全体が一様に濡れている。台座には小さな水溜まりができ、そこから細い水の筋が、本堂の隅へと流れていた。
「あれは......」
浄真が問おうとすると、隣にいた年配の僧が、慌てたように袖を引いた。
「見ぬが仏、というやつです。あれには近づかぬよう」
そう言い残し、僧は足早に本堂を出て行った。
その夜、浄真は与えられた狭い僧房で、寝床に就いた。しかし、なかなか寝付けない。あの濡れた石仏の姿が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
丑三つ時を過ぎた頃だろうか。廊下を歩く足音で、浄真は目を覚ました。規則正しい足音が、本堂の方へと向かっていく。誰かが夜中に勤行でもするのかと思ったが、読経の声は聞こえてこない。
好奇心に駆られ、浄真は僧房を抜け出した。月明かりの差し込む廊下を、足音を忍ばせて進む。本堂の扉が、わずかに開いていた。
隙間から中を覗くと、一人の僧が、あの濡れ仏の前に座っていた。若い僧だった。名前は確か、清玄といったか。浄真より二つ三つ年上の、物静かな青年僧である。
清玄は、濡れ仏に向かって、何事かを呟いていた。経文ではない。もっと私的な、まるで誰かと会話をしているような口調だった。
「今日も、お会いできて嬉しゅうございます」
清玄の声は、恋する男のように甘く響いた。
「あなたのお姿を拝見できるのが、私の唯一の慰めです。昼は皆の目があって近づけませんが、夜はこうして......」
月光が雲に遮られ、本堂が闇に包まれた。次に月が顔を出した時、浄真は息を呑んだ。
濡れ仏の顔が、変わっていた。
先ほどまでの無表情な石の顔ではない。それは、この世のものとは思えぬほど美しい女の顔だった。切れ長の目、形の良い鼻、薄く開いた唇。しかし、その表情には深い悲しみが宿っている。まるで、永遠に流れ続ける涙を堪えているような。
清玄は恍惚とした表情で、濡れ仏の頬に手を伸ばした。指先が石に触れた瞬間、じわりと水が滲み出す。それは冷たい水ではなかった。人肌の温もりを持った、生暖かい水だった。
「ああ、今日も泣いておいでですね」
清玄は、袖で仏像の頬を拭った。しかし、拭いても拭いても、水は止まらない。
「お気の毒に。百年もの間、ずっと泣き続けて......でも、もう大丈夫です。私がいます。私だけは、あなたを理解しています」
浄真は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。清玄の様子は、明らかに正常ではなかった。まるで、生きた女と語らっているかのような、狂おしい恋情が、その声に滲んでいる。
そして、もっと恐ろしいことに気づいた。清玄の僧衣が、濡れている。それも、ただ濡れているのではない。体の内側から水が滲み出しているかのように、僧衣全体が湿っていた。
月が再び雲に隠れた。闇の中で、水の滴る音だけが響く。ぽたり、ぽたりと、規則正しく。それが仏像から落ちる水なのか、清玄から滴る水なのか、もはや判別がつかなかった。
翌朝、浄真は朝勤行の後、寺の書庫に向かった。この寺の歴史を知りたかった。特に、あの濡れ仏について。
埃をかぶった古い記録を紐解いていくと、一冊の日誌が目に留まった。表紙には「文政五年 当山日録」とある。今から百年ほど前の記録だった。
頁を繰っていくと、ある記述で手が止まった。
『七月十五日 大雨。裏山の娘、狂乱して寺に逃げ込む。名は雪絵という。年は十七、八。器量良し。されど正気にあらず。水、水と叫び続ける』
『七月十八日 雪絵、相変わらず狂態。聞けば、許嫁に裏切られたとか。相手の男、別の女と所帯を持ったという。哀れなり』
『七月二十日 奇怪なり。雪絵の体より、絶えず水が滲み出る。医者を呼べども、病の正体わからず。体が水になる、と雪絵は泣く』
『七月二十五日 雪絵、井戸に身を投げる。止める間もなし。されど、いくら探せども遺体上がらず。井戸の水、異様に増える』
『八月一日 井戸を封印。上に石仏を置く。以来、石仏より水が滴る。止む気配なし』
浄真は日誌を閉じた。額に脂汗が滲んでいる。百年前、この寺で一人の女が命を絶った。そして、その怨念が石仏に宿り、今も水を流し続けている。
だが、それだけではない気がした。清玄の様子を思い出す。彼は仏像と会話していた。まるで、相手が生きているかのように。
もしかしたら、雪絵はまだ......
その時、背後で声がした。
「お調べ物ですかな」
振り返ると、慈海和尚が立っていた。いつから、そこにいたのか。足音ひとつ聞こえなかった。
「濡れ仏のことを......」
「知りたいと?」
慈海和尚の目が、鋭く光った。
「若い者は好奇心が強い。それは結構なことだ。しかし、知らぬが仏ということもある」
「でも、清玄さんが......」
浄真は、昨夜見た光景を話そうとした。しかし、慈海和尚は手を挙げて、それを制した。
「清玄のことは、我々も承知している。あれも、仏縁というものかもしれぬ」
「仏縁?」
「人と人の縁は、一生では終わらぬ。生まれ変わり、死に変わり、巡り巡って、また出会う。清玄と、あの仏像の中の者も、前世で縁があったのかもしれぬ」
慈海和尚の言葉は、謎めいていた。仏像の中の者、という言い方が気になった。
「和尚様は、ご存じなのですね。あの仏像の正体を」
「知っている。だからこそ、近づくなと言うのだ」
慈海和尚は、浄真の肩に手を置いた。その手は、氷のように冷たかった。
「浄真よ、お前には申し訳ないが、もう少しの辛抱だ。清玄がいなくなれば、今度はお前の番かもしれぬ。守りたいが、この縁からは誰も逃れられぬ……私も含めてな。だが、それも運命というもの。この寺で修行する者の、定めなのだ」
意味深長な言葉を残し、慈海和尚は去っていった。
浄真は、寒気を覚えた。清玄がいなくなれば、次は自分? 一体、何の話をしているのか。
その夜、浄真は再び本堂に向かった。今度は、隠れてではなく、堂々と。濡れ仏の謎を、自分の目で確かめたかった。
本堂は静まり返っていた。月明かりが、仏像を青白く照らしている。濡れ仏は、相変わらず水を滴らせていた。
浄真は、恐る恐る仏像に近づいた。一歩、また一歩。足元に水溜まりが広がる。冷たい水が、草鞋を通して足に染み込んでくる。
仏像の正面に立った。月光の下で見ると、確かに美しい顔立ちの仏像だった。しかし、女の顔ではない。あくまでも、仏の顔だった。
昨夜、清玄が見ていたものは、幻だったのか。
後に和尚はこう言った。「あれは見る者の心を映す。恋情を抱けば女の顔に、畏れれば仏の顔に。実体が変わるわけではない」
浄真は、仏像の台座に目を向けた。そこには、古い文字が刻まれている。昼間は気づかなかったが、月光の角度で、はっきりと読めた。
『水に沈みし者、ここに封ず。開くべからず、触るべからず、語りかくべからず』
最後の一文に、浄真は息を呑んだ。語りかけてはいけない。清玄は、毎晩、仏像に語りかけていた。
その時、仏像から、ぽたりと大粒の水が落ちた。それが、浄真の手の甲に当たる。
瞬間、凄まじい冷気が全身を貫いた。体が凍りつき、動けなくなる。そして、意識が、深い水の底に引きずり込まれていく感覚。
暗い水の中で、浄真は見た。
一人の女が、泣いている。美しい女だった。しかし、その体は透明で、水で出来ているかのようだった。女は、浄真に向かって手を伸ばす。その口が、何かを言おうとして開く。
『私を......私を......』
声が、直接頭の中に響いた。
『私を、ここから出して......百年も、閉じ込められて......水の中で、溺れ続けて......』
女の姿が、次第に変わっていく。美しい顔が崩れ、腐敗していく。皮膚が剥がれ、肉が溶け、骨が露出する。それでも、女は手を伸ばし続ける。
『一緒に......一緒に水になりましょう......そうすれば、もう苦しくない......』
浄真は、必死で意識を保とうとした。このまま水に呑まれれば、自分も女と同じになる。永遠に水の中で、溺れ続ける存在に。
その時、鋭い声が響いた。
「離れよ!」
慈海和尚だった。手には数珠を持ち、激しく振っている。その数珠から発せられる気が、水の女を押し返していく。
「浄真、早くこちらへ!」
浄真は、残された力を振り絞り、仏像から離れた。体が自由になる。足がもつれ、床に倒れ込んだ。
「愚か者が」
慈海和尚の叱責が飛ぶ。
「言ったはずだ。近づくなと」
「申し訳ございません」
浄真は、震えながら頭を下げた。体がまだ冷たい。水に浸かっていたような感覚が残っている。
「清玄のようになりたいか」
慈海和尚の言葉に、浄真は顔を上げた。
「清玄さんは......」
「もう手遅れだ。あれは、すでに半分、水になっている」
慈海和尚は、濡れ仏を見つめた。その目には、深い悲しみが宿っていた。
「この寺には、百年前から続く呪いがある。水の女、雪絵の呪いだ。記録には人間の娘とあるが、それは当時の僧や村人がそう信じていたに過ぎぬ。真実は、人間ではなかった。水の精が、人間に恋をして、姿を変えたものだった」
浄真は、日誌の内容を思い出した。確かに、雪絵の体から水が滲み出ていたという記述があった。
「しかし、人間に裏切られ、正気を失った。そして、元の水に還ろうとしたが、怨念が強すぎて、完全に水に還れなかった。半端な状態で、井戸の底に留まり続けた」
「それで、仏像に封じたのですか」
「そうだ。しかし、封印は完全ではない。彼女は今も、仏像の中で生きている。そして、話しかける者があれば、その者を水の世界に引きずり込もうとする」
慈海和尚は、ため息をついた。
「この寺の僧は、代々、一人ずつ犠牲になってきた。水に取られて、消えていく。そして、新しい僧が来て、また同じことを繰り返す」
「なぜ、仏像を壊さないのです」
「壊せば、雪絵が解放される。そうなれば、この寺どころか、京の都が水に沈むかもしれぬ」
浄真は、慈海和尚の言葉の重さを感じた。この寺は、恐ろしい存在を封じる、結界の役割を果たしていたのだ。
「清玄さんを、助ける方法は」
「ない。あれは、自ら望んで水に近づいた。雪絵に恋をしてしまった。もはや、人間には戻れぬ」
その夜、浄真は眠れなかった。清玄のこと、雪絵のこと、そして自分の運命のことを考え続けた。
明け方近く、廊下を走る足音で目が覚めた。慌ただしい声が聞こえる。
「清玄が! 清玄がいない!」
浄真は、飛び起きて廊下に出た。僧たちが、右往左往している。
「どうしたのです」
「清玄の僧房が、水浸しになっていて......本人の姿がどこにも」
嫌な予感がして、浄真は本堂に走った。
濡れ仏の前に、清玄の僧衣が落ちていた。それは、ぐっしょりと濡れて、水溜まりの中に沈んでいた。しかし、清玄の姿はない。
ただ、濡れ仏から流れる水の量が、昨日より増えていた。滝のように、激しく水が流れ落ちている。そして、その水の中に、かすかに人の形が見えるような気がした。
二つの影が、水の中で絡み合い、溶け合っていく。一つは女の形、もう一つは男の形。彼らは、ようやく一つになれたのかもしれない。水という、境界のない世界で。
清玄が消えてから、三日が過ぎた。
寺では表向き、清玄は急な所用で山を下りたということになっていた。しかし、僧たちは皆、真実を察していた。濡れ仏に魅入られた者の末路を、誰もが知っていたのだ。
浄真は、この三日間、奇妙な夢に苛まれていた。
夢の中で、自分は水の底にいる。透明な水の壁に囲まれ、息ができるはずもないのに、なぜか苦しくない。そして目の前には、一組の男女が抱き合っている。女は雪絵、男は清玄。二人の体は半透明で、互いに溶け合い、境界が曖昧になっている。
女が振り返る。その顔は、美しくも恐ろしい。水で出来た瞳が、じっと浄真を見つめる。
『あなたも、来るのでしょう?』
雪絵の声が、水を通して響く。
『私たちは、ずっと待っていた。百年前から、いいえ、もっと前から。私と、この人と、そしてあなたと。三人で一つになる時を』
清玄も振り返る。その顔は、苦悶と恍惚が入り混じった、複雑な表情をしていた。
『浄真......君も、思い出すはずだ。前世の記憶を』
そこで、いつも目が覚める。全身が汗でぐっしょりと濡れている。いや、汗ではない。もっと冷たい、水のようなものが、体中から滲み出ている。
四日目の朝、浄真は慈海和尚に呼ばれた。
「そろそろ、すべてを話す時が来たようだ」
慈海和尚の表情は、いつになく厳しかった。
「浄真よ、お前がこの寺に来たのは、偶然ではない」
「どういうことです」
「お前の前世を、知っているか」
浄真は首を振った。前世など、考えたこともなかった。
「お前は、百年前、雪絵を裏切った男の生まれ変わりだ」
浄真の体が、凍りついた。
「まさか......」
「名を、源之助という。商家の跡取りで、雪絵と祝言を挙げる約束をしていた。しかし、親が決めた別の女と結婚することになり、雪絵を捨てた」
慈海和尚は、一冊の古い帳面を取り出した。そこには、当時の記録が詳細に記されていた。
「源之助は、その後、水の事故で命を落とした。池に落ちて溺死。遺体が上がった時、なぜか全身が透明な水のようになっていたという」
浄真は、帳面の文字を見つめた。そこに描かれた源之助の人相書きを見て、息を呑んだ。それは、鏡に映った自分の顔そのものだった。
「輪廻とは、恐ろしいものだ」慈海和尚は続けた。「罪を犯した者は、生まれ変わっても、その報いから逃れられない。お前は、雪絵に会うために、この寺に導かれた」
「では、清玄さんは?」
「清玄もまた、前世で雪絵と縁があった。雪絵が、まだ水の精だった頃、最初に恋をした人間だ。名を、藤之丞という。平安の御代の話だ」
浄真は、めまいを覚えた。千年、百年という時の流れの中で、同じ魂が、何度も出会い、別れを繰り返している。
「藤之丞は、雪絵の正体を知って恐れをなし、彼女を捨てた。それが、雪絵が人間不信になった最初のきっかけだった。そして、生まれ変わって源之助と出会い、また裏切られた」
「それで、雪絵は......」
「狂った。二度も裏切られ、もはや人間を信じられなくなった。しかし、それでも愛することを止められなかった。水の精は、一度恋をすると、永遠に相手を想い続ける」
慈海和尚は、窓の外を見つめた。そこには、濡れ仏のある本堂が見える。
「清玄は、自ら進んで雪絵の元へ行った。前世の罪を償うために。そして今度は、お前の番だ」
「私は......」
浄真は、拒絶しようとした。しかし、体の奥底から、不思議な感覚が湧き上がってくる。懐かしさ、罪悪感、そして抗いがたい引力。まるで、見えない糸で濡れ仏に引き寄せられているような。
その夜、浄真は、自分の意志に反して、本堂に向かっていた。足が勝手に動く。止めようとしても、止められない。
濡れ仏の前に立つと、石仏の様子が昨日とは違っていた。水の流れが穏やかになり、まるで静かに泣いているようだった。
そして、仏像の顔が、ゆっくりと変化し始めた。石の顔が、次第に柔らかくなり、生身の女の顔になっていく。雪絵だった。しかし、以前見た時のような恐ろしさはない。ただ、深い悲しみに沈んでいる。
『源之助様......いいえ、今は浄真と呼ばれているのですね』
雪絵の声が、直接心に響いた。
『百年ぶりです。お待ちしておりました』
「雪絵......」
浄真の口から、自然に名前が漏れた。その瞬間、記憶の扉が開いた。
百年前の記憶が、濁流のように押し寄せてくる。雪絵と出会った日、恋に落ちた日々、そして裏切った日。親の命令とはいえ、自分は雪絵を捨てた。金と家名のために、真実の愛を踏みにじった。
「許してくれ」
浄真は、膝をついた。涙が止まらない。それは、自分の涙なのか、百年前の源之助の涙なのか、もはや区別がつかない。
『許します』
雪絵の声は、意外にも穏やかだった。
『清玄様......いいえ、藤之丞様も、ようやく私の元に来てくださった。千年の恨みも、もう消えました。でも......』
雪絵の表情が、苦悶に歪んだ。
『私は、もう水から離れられない。人間に戻ることも、完全な水に還ることもできない。永遠に、この中間の状態で、苦しみ続けなければならない』
浄真は、雪絵の苦しみを理解した。愛と憎しみ、人間への憧れと絶望、すべてが入り混じって、彼女を苦しめている。
「一緒に行こう」
浄真は、自分でも驚くような言葉を口にした。
「私も、君と同じ水になる。そうすれば、もう離れることはない」
雪絵の瞳から、透明な涙が流れた。それは、喜びの涙だった。
『本当に......本当に、よろしいのですか』
「これが、私の贖罪だ」
浄真は、濡れ仏に手を伸ばした。指先が石に触れた瞬間、激しい水流が体を貫いた。
体の中の水分が、すべて外に引き出されていく感覚。血液が水に変わり、肉が溶け、骨が透明になっていく。苦しいはずなのに、不思議と心地よい。まるで、長い旅から故郷に帰ってきたような安らぎがある。
慈海和尚が、本堂に入ってきた。手には、数珠と経文を持っている。
「やはり、こうなったか」
慈海和尚の声には、諦めと悲しみが混じっていた。
「和尚様......」
浄真は、すでに半分水になった体で振り返った。
「これで、よいのです。これが、私の選んだ道です」
「そうか」
慈海和尚は、静かに経を唱え始めた。それは、成仏を願う経ではなく、魂の安らぎを祈る経だった。
浄真の体が、完全に水になった。透明な水の塊となって、濡れ仏の中に吸い込まれていく。そこには、すでに清玄もいた。三つの魂が、水の中で一つになっていく。
不思議なことが起きた。
濡れ仏から流れる水が、次第に減っていった。そして、ついに完全に止まった。百年間、流れ続けた水が、初めて止まったのだ。
石仏の表面が、ゆっくりと変化し始めた。一体の仏像が、三体の仏像に分かれていく。中央に女の姿をした観音像、その両脇に男の姿をした菩薩像。三体は、手を取り合い、穏やかな表情で微笑んでいた。
慈海和尚は、その光景を見て、深く息をついた。
「ようやく、終わったか」
翌朝、寺の僧たちは、奇跡を目にした。百年間濡れていた石仏が、完全に乾いていた。そして、一体だったはずの仏像が、三体になっている。
しかし、誰も不思議がらなかった。まるで、最初からそうであったかのように、三体の仏像を受け入れた。
慈海和尚は、新しい札を立てた。そこには、こう記されていた。
『縁結びの三尊仏 ― 永遠の愛を誓いし者たちここに眠る』
それから後、この寺は縁結びの寺として知られるようになった。恋人たちが訪れ、三体の仏像に祈りを捧げる。そして時折、風のない日に、仏像から水音が聞こえるという。
慈海和尚は「もう水ではない。三つの魂が交わす言葉の音だ」と微笑んだ。
それは、苦しみの水音ではない。三つの魂が、水の世界で笑い合う、幸福な水音だった。
ある雨の日、慈海和尚は本堂で一人、三尊仏に向かって手を合わせた。
「浄真よ、清玄よ、そして雪絵よ。お前たちは、ようやく安らぎを得た。水は、すべてを浄化し、すべてを一つにする。それが、お前たちの選んだ涅槃だったのだな」
和尚の目から、一筋の涙が流れた。それは、長い間、この寺を守ってきた者だけが知る、深い安堵の涙だった。
雨は、やがて上がった。雲間から差し込む陽光が、三尊仏を照らす。濡れていないはずの仏像の表面に、一瞬、虹色の水滴が輝いた。それは、この世のものとは思えぬほど、美しい光景だった。
そして、どこからか、かすかに聞こえてきた。
『ありがとう......』
それが誰の声だったのか、慈海和尚にも分からなかった。ただ、その声には、千年の時を超えた、深い感謝が込められていた。
寺の鐘が、静かに時を告げる。
水は流れ、時は流れる。しかし、真実の愛は、形を変えても流れ続ける。水のように、永遠に。
こうして、濡れ仏の物語は、終わりを迎えた。
いや、終わりではない。新しい始まりかもしれない。三つの魂が一つになった水は、今も寺の地下深くを流れている。そしていつか、また新しい形で、この世に現れるかもしれない。
愛と水は、決して滅びることがない。形を変え、姿を変え、永遠に循環し続ける。それが、この世の理なのだから。
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