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思わぬ知らせ

 薄曇りの空から、柔らかな光が差し込む午後。

 セレスティアの工房には、いつにも増して張りつめた静けさが漂っていた。


 木製の作業台の上には、あの翡翠のブローチが鎮座している。

 側には、魂刻専用の刻印具と、淡い光を放つ微細な魔術触媒が並んでいた。


 セレスティアは、何層もの防護結界を張った上で、静かに深呼吸する。

 魂刻は、繊細な術だ。対象となる物に宿る“想い”を損なわず、ただ記録として掬い上げなければならない。


 彼女は目を閉じ、細い指先を翡翠に触れた。

 そこに確かに感じる、優しく、しなやかで、芯のある“記憶の痕跡”。

 誰かを愛し、誰かに教え、誰かの未来を信じて生きた一人の魔術師の魂の温もり。


「——転写、開始」


 呟くと、淡い金の光が翡翠を包み、術式が静かに稼働を始めた。

 その光は、断片的な記憶や声、情景の一片を、宝玉の奥へと転写していく。

 決して支配せず、書き換えず、ただ“そこにあったこと”を静かに封じ込める。


 術が終わったとき、翡翠は微かに輝き、まるでそこに“誰か”が眠っているかのような気配を放っていた。


 セレスティアはそれを慎重に箱へ戻し、工房の扉を開いた。


 「……終わったわ」


 離れの玄関先で、フィリはセレスティアの言葉を受けて立ち上がった。

 その顔には、覚悟とも、諦念ともつかない表情が浮かんでいる。


 セレスティアは静かに近づき、箱を手渡した。

 フィリはそれを受け取り、しばらく言葉を失ったまま、ただ黙って見つめていた。


「……彼女の思いは、この中にある。ただし、それはあくまで“記録”であって、“命”ではないわ」


「……ああ、分かってる」


 フィリの声は低く、だがその響きには、どこか救われたような色があった。


 しばらくの沈黙。

 やがて彼は小さく息をつき、皮肉のように笑った。


「……君のことを、もっと早く訪ねるべきだったな」


 セレスティアは少しだけ目を細めた。


「でも、今のあなたが来たから、こうなったのよ。昔のあなたなら、無理矢理に術を求めたかもしれない」


「……かもしれないな」


 彼は箱をしっかりと懐にしまい、そして、まっすぐに彼女を見た。


「ありがとう、セレスティア」


「礼なら、彼女に言ってあげて。あなたのそばにいたいと、そういう想いが染み込んでいたわ」


 その言葉に、フィリはふっと目を細めた。


「しかし我が師は、自身の延命は望んでいなかったんだね。残酷な人だ」


 そのまま、ゆっくりと館を後にした。


 セレスティアは扉を閉めることなく、その背を見送っていた。

 森の緑の中へ、彼の背がゆっくりと沈んでいく。


 緑の匂い、風の音、静けさが、確かにそこに戻ってきていた。


 この平穏が、あとどれほど続くだろうか——

 そんなことは考えず、ただ目を閉じた。


 世界で唯一、魂刻の術を操る魔術師は、今はただ、風の音に身を預けていた。







 セレスティアが温室の片隅で希少な薬草を植え替えていたときだった。静けさの中、ふわりと機械仕掛けの足音が近づく。振り返ると、執務用ゴーレムのサーブリンが滑らかに歩み寄ってくる。金属と木材で組まれた長身の姿が、硝子越しのやわらかな陽光を反射していた。


「セレスティア様、外部から書状、到着……本日、王都方面より、」


「……ありがとう、そこに置いておいて」


 サーブリンは無言で頷き、小さな銀の盆に乗せられた封書を、そっと卓上に置くと再び音もなく立ち去っていった。

 セレスティアは作業をひと段落させると、その封書を手に取った。封蝋には、王国の紋章ではなく、見慣れた剣型の印が押されている。


 ここには基本的に手紙は届かない。セレスティアはごく一部の人間にしか、やりとりの方法を教えていなかった。


「……リュカ」

 

 手袋を外しながら封を切る。見慣れた端整な筆致。それは、リュカからの手紙だった。


『例の件だが、王都方面で不穏な動きがある。中心にいるのは灰灯はいとうの商人と呼ばれる人物。旧市街出身の平民だが、今は貴族にも通じる資金力と人脈を持っている。裏の組織と通じており、“魂刻”に異常な執着を見せているとの報告がある。

貴君の身辺に注意を払われたし。

 ――リュカ・ゼルグランド』


「……平民出身の成り上がり、ね」


 セレスティアは、眉をひそめたまま封を畳んだ。情報の出所がリュカなら、確かだ。だが、“魂刻”への執着という言葉に、喉の奥がかすかに渇くような感覚を覚える。


 手紙の裏を見ると、小さな文字で追伸が刻まれている。


『なにかあれば、知らせてくれ。剣を持って向かう。それだけのことだ』


 最後の一文を読み終えたセレスティアは、手紙の端をそっとなぞった。

 凛とした筆跡。誤字も乱れもない、鍛え上げられた剣のような文字。

 彼の人となりが、行間にまで滲んでいる。


 セレスティアは手紙を手に取ったまま、しばらくの間、静かにそれを見つめていた。手紙は騎士団長リュカからのもので、いつでも駆けつけるという彼らしい堅実な言葉が綴られている。だが、その言葉の響きは、彼女にとっては重くのしかかるものだった。


「また、静かな日々が乱されるのかもしれない」


 心の奥でそんな思いが膨らんだ。何年もかけて築き上げてきた、この山奥の館での静寂と平穏。それがもう、脆く壊れやすいものに思えてならなかった。

 

 しかし、もう一方で、彼女は密かに違う感情も抱いていた。リュカやフィリと再会したあの時のことを思い返すと、心の奥がほんの少し温かくなるのを感じるのだ。長く孤独を選び続けてきた自分にとって、旧友たちと交わした些細な会話や、ほんの少しの気遣いは、思っていた以上に救いだったのかもしれない。


 けれども、その事実を認めることは、セレスティアには容易なことではなかった。彼女は自分の孤独を誇りにしてきたし、その静けさこそが研究に没頭できる場所であると信じていた。感情の揺らぎを見せれば、また誰かに弱さを突かれ、翻弄されることを恐れていた。


 だからこそ、彼女は静かに自分の心に言い聞かせる。


「大丈夫、きっと大丈夫だわ」


 だが、その声はどこか頼りなく、揺らいでいた。セレスティアは深く息をつき、玄関前に置かれた唯一のベンチに腰を下ろした。静かな風が窓から吹き込み、木漏れ日が彼女の顔を優しく撫でる。


 セレスティアは少しだけ、自分が思っていたよりも孤独に弱いのかもしれないと気づいていた。だが、それを誰にも言わずに、ただ静かに座り続けるのだった。

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