過去と想い
その後、フィリをなんとか館から追い出したものの、彼は離れに住み着くこととなった。
「出ていって、お願いよ……せめて離れで過ごしてちょうだい」
と最終的に折れたのはセレスティアだったので、フィリは言質を取ったのばかりに、そのまま離れで暮らし始めたのだ。
セレスティアは彼の軽妙な口調と慇懃な態度に辟易しながらも、彼の視線が時折、道具棚や保管庫に向けられることに気づいていた。彼の目には好奇心以上のもの——探るような、狙いを定めるような光があった。
ある午後、セレスティアは痺れを切らした。
「いい加減、目的をはっきりさせたいのだけれど」
目的がはっきりしなければ、出ていってもらうこともできない。
「“魂刻”に関して、ひとつだけ君に意見を仰ぎたいんだ」
セレスティアは、わずかに眉を寄せた。
「聞くだけなら」
「ありがとう。……魂を媒介に記憶や感情を定着させる第二段階の処理で、転写がうまくいかないんだ。刻印が時間と共に揺らぐ。思念の濃度が一定にならないのが原因だと仮定して調整はしたけど……」
「……魂の“奥”に触れていないからよ」
セレスティアは言いながら、そっと胸の前に手を当てた。
「転写できないのは、思念の表層だけをなぞってるから。本質的に“揺らがない核”を見極めないと、あの術式は定着しない」
フィリの目が細められる。
「やはり、君は見ている世界が違う。……僕がどれだけ魔力を注ぎ、理論を積み上げても、最後の一歩が届かないのは、君だけが知っている答えに触れていないからだ」
彼の言葉は賛辞のように聞こえたが、それだけの感情ではない。
「褒めていただけるのは結構。それで、どうしてフィリが“魂刻”を? 再現性のない魔術は技術ではないと、散々言っていたじゃない」
「なに、しがらみある王宮魔術師の仕事の一貫さ。国王陛下が、戦勝パーティーにて、戦の名場面を再現したいらしい。使われた武器や防具の記憶を読み取って再現するところまで思いついて、君の“魂刻”の技術が役に立つんじゃないかと」
「……戦のプロパガンダに用いようというのね」
「まあ、ちょっとした余興だよ。そんな大げさな話じゃない。僕が自分で探すから、関連する文献をいくつか貸してくれないか?」
セレスティアは無言で資料棚を見やり、面倒そうに一冊、また一冊と文献を手渡した。彼女の目はどこか冷めていて、早く帰ってほしいという気持ちが隠せない。
フィリが文献を手に取り、何冊かめくる音が静かに響く。セレスティアは無言で棚から次々と資料を引き出しながら、ふと過去のある日を思い出した。
あの頃も、まるで今と同じように、彼のために文献を探していた。王宮の書庫で、彼はいつも熱心に研究資料を求めていた。
「この辺が参考になるかな……」
セレスティアは才気あふれる魔術師として評判を博し、王国に貢献する存在だった。王宮の廊下を歩けば、人々が一目置き、期待の眼差しを向けた。彼女の「魂刻」付与魔術は誰にも真似できず、国の未来を託された研究だった。
ある晩、セレスティアが研究室に残っていると、扉が乱暴に開け放たれた。
「セレスティア! まさか君が」
扉を開けたのはリュカだった。リュカはそこにいるのがセレスティアだと認めると、信じられないと言うようにかぶりを振った。
「すまないが、君を連れて行く。誤解はすぐに解けるだろうが、今は――」
リュカの黒髪が冷たい灯の下で揺れ、彼の瞳には迷いと忠義が交錯していた。
「待ってください。一体何事ですか?」
扉の向こうから歩み寄ってきたのは、同僚の宮廷魔導師――フィリ・マリエンだった。まだ若く、今よりもさらに柔らかな表情をした彼は、半ば駆け寄るようにしてリュカとセレスティアの間に割って入った。
「彼女に何の罪があるというのです。魂刻の理論は確かに異才だが、彼女は王に忠誠を尽くしてきた。我々の誰よりも真摯に、魔術と向き合ってきたじゃないか!」
リュカは目を細めたが、すぐに口を開く。
「……正式な罪状は“国家機密の意図的漏洩”。彼女がそんなことをするはずがないのは分かっている」
一瞬、フィリの顔から血の気が引いたようだった。だがすぐに柔らかな微笑みを貼り付けたまま、セレスティアを見つめる。
「君がそんな真似をするはずがない……だろう?」
セレスティアは答えなかった。ただ、自分の手がわずかに震えていることに気づいていた。
「行こう」
リュカの低い声に、セレスティアは頷く。
「セレスティア」
フィリの問いかけに、セレスティアは振り返らずに答えた。
「魔術師なら、目に見えるものだけで判断するな。……そう教わったはずよ」
連れられていくセレスティアの背中を、フィリはじっと見つめていた。
書架の奥に手を伸ばしていたセレスティアは、ふと手を止めた。指先に触れた古い羊皮紙の感触が、過去の記憶を引きずり上げたようだった。
王宮でのあの一日。嵐の匂い、フィリの声音、リュカの瞳。
静かに瞬きをして、記憶を遠ざける。今は過去に溺れる時ではない。
棚の上段に指先を這わせながら、セレスティアは不意に思い出したように言った。
「……そういえば、あなたの師匠は元気かしら?」
その一言に、フィリの手が止まった。
「ん……ああ……」
珍しく言葉を探すような、間のある返答だった。
セレスティアは思わず振り向いてフィリの顔色を伺った。
「あなたがそんなふうに言い淀むなんて、珍しいわね」
普段の彼ならば、こういう場面では決まって自慢げに師匠の話を持ち出すはずだった。祖母でもあり、魔法定理学の祖とも称されるイレーネ・マリエンの名前が出れば。
“我が師は〜”
“祖母はね、昔——”
そんな語り口が今日はどこにもない。
「いや……ちょっと体調を崩していてね。歳も歳だから、まあ……そういう時期かなと思ってる」
誤魔化す調子だった。フィリらしくない。
セレスティアはようやく背を向け、静かに彼を見た。その眼差しは冷静だが、どこか憐れみのような色も宿していた。
「……老いというのは残酷だよ、セレスティア。かつての鋭さも、威厳も、いずれ霞んでいく」
「魂刻を使って、延命しようとしているのね」
セレスティアの鋭い一言に、フィリは目を逸らした。セレスティアはフィリに一歩近づき、きっぱりと言い切る。
「私に頼んでも無駄よ。寿命を延ばすことはできない」
フィリは一瞬だけ表情を強ばらせた。けれど、そのあとですぐに苦笑を浮かべた。
「……やっぱり、君には隠せないか」
「あなたのことは、昔から見てきたもの。……魂刻は命の深層に触れる術。ほんの僅かの誤差で、魂が断たれることもある」
セレスティアは手にしていた一冊の文献を閉じ、机に置いた。
「だけど——“思い出”を残すことなら、できるわ。魂に直接刻まない、緩やかな記録として。遺すための、魔道具なら」
フィリは目を伏せた。腕を組んだまま、しばらく何も言わずに立っていた。
「……本当に、どうしても無理なのか?」
その声は、かすれていた。王宮魔導師としての誇りも、皮肉も、すべてを脱ぎ捨てたような、素の声だった。
セレスティアは目を逸らさずに答えた。
「あなたの師匠が、命を削ってあなたに知識を伝えてきたのなら……その人が本当に望むのは、永遠に生きることではないでしょう。きっと、“遺ること”よ。あなたの記憶の中に」
フィリはゆっくり頷いた。しばらくの沈黙の後、懐から細長い箱を取り出した。
箱を開くと、そこには小さなブローチが収められていた。古びた銀細工の中に、小さな翡翠の宝玉がはめ込まれている。
「……祖母が若い頃から使っていたものだ。いつも、これを胸につけていた。たぶん、彼女の想いが、いちばん染み込んでる」
セレスティアは手を伸ばし、それをそっと受け取った。
「これなら、できるわ。記憶の断片を、失われないように織り込める」
窓の外では、午後の陽光が傾きかけていた。
セレスティアの白い指先で、翡翠がかすかに光を帯びる。
言葉を交わさずとも、フィリはうなずいた。