王宮魔術師フィリ
昼下がり、空は澄み渡り、鳥の声が遠くで揺れていた。
セレスティアとリュカは並んで森の奥へと分け入っていく。
ここは、セレスティアの住まう隠れ家の敷地のさらに奥――人の気配が絶えて久しい、静謐と神聖さに満ちた深林だった。
「……ここは、古代の祈祷跡。祭壇こそ風化してるけれど、かつて信仰の場だったの」
そう言うセレスティアの声も、自然と抑えめになる。
木々は高く聳え、枝葉の隙間から陽光が斑に差し込む。
まるで万物が息をひそめ、彼らを見守っているかのような空気だった。
リュカは片手を剣の柄に置き、視線を森の陰に走らせている。
無言だが、その気配は常に張りつめていた。
「危険は?」
リュカが低く問う。
「魔力の流れはあるけれど、もう濃くはないわ。何もないはずだけれど」
しばらくして、リュカが指差した先に小さな凹みがあった。
「……ここだ」
セレスティアはそっと凹みに手をかざす。魔力量を確認しながら慎重に土をかき分けるとわずかな金属の角に突き当たった。
二人は目を見合わせ、さらに掘り進める。それはどうやら小さな小箱のようだった。触れると冷たく、硬質な金属の質感が伝わってきた。
「これね……」
セレスティアは感触を確かめるようにして箱のあちこちに触れてみた。
「開けられるか?」
リュカの声が低く響く。
セレスティアは頷き、魔力を指先に集中させながら、古代語で箱の封印に語りかける。
一瞬、箱がわずかに震え、静かに蓋が開いた。
――その瞬間。
「……こんなふうに、誰かと肩を並べて、朝を迎えたかった……」
どこからともなく、かすかな“声”が響いた。
それは確かに、セレスティアの声だった。だが、彼女自身が発したわけではない。
「……っ!」
セレスティアは反射的に箱を閉じた。
蓋はピタリと重なり、音もなく沈黙した。
「今のは……」
リュカが言いかける。セレスティアは少し考えて言った。
「……これは、そうね。悪戯箱よ。開けた者の声質を読み取って喋る、不思議な古代遺物。古代には宴会芸としてでも使ってたのかもしれないわ」
リュカは眉をひそめたまま、何も言わなかった。ただ、まっすぐにセレスティアを見つめていた。
「本気で取らないで。あんなの、ただの魔術の反響よ」
セレスティアはハンカチを取り出すと、そっと箱を包み、その箱を持ち帰ることにした。
けれど、心の奥には波紋が残っていた。
(古代にもいたのかしら……
こうやって、素直な想いを声に出せなくて、誰かにも伝わらない苦しみを味わった人が)
セレスティアは自分の胸の奥をそっと撫でる。そこに残る言葉は、誰に聞かせたかったものなのか、自分でももう分からなかった。
数日後。朝の光が、霧を溶かすように山を照らしていた。
セレスティアは、完成したネックレスを手にして、離れへと向かう。
離れの前には、もう荷をまとめたリュカが静かに立っていた。
「……できたんだな」
彼の声はいつも通り低く、感情をほとんど乗せていない。
「ええ。ジークに渡して。これは、彼が持つべきものよ」
セレスティアは小さな箱を差し出した。
箱の中には、淡い光を帯びたペンダント――その銀の鋼の中に、青と銀の糸を編んだような紋様が、封じられていた。
「……助かった。礼を言う」
リュカはセレスティアの差し出した箱を、まるで宝物のように丁寧に受け取った。
その黒髪の騎士は、最後まで無骨で、礼儀を崩さなかった。
「これで目を覚ますはず。意識が安定するまではしばらく身につけておくことね」
「ああ。伝えておく」
セレスティアは、ただ小さく頷く。
リュカはそれを懐に収めたあと、ふと、僅かに視線を逸らし、言った。
「……また、来てもいいか」
その言葉は、ごく短く、けれど明確だった。
任務でも、命令でもない。ただ、個人としての問いかけ。
騎士としての礼節と、ひとりの男としての想いが、言葉の隙間から滲んでいた。
セレスティアはその一言に、数拍の沈黙で応えた。
朝の風が、淡く銀色の髪を揺らす。
その視線の先には、変わらぬ山の風景。けれど、彼女の心の中では、言葉が選ばれていた。
そして、ゆっくりと、口を開く。
「……それは、困るわね」
「……」
「今は、静かに暮らしたいの。誰の来訪も、望んでいないわ」
はっきりとした拒絶。けれどその声は、どこか優しかった。
決して突き放すようなものではなく、彼女なりの距離と礼儀だった。
「……わかった」
リュカはひとつ深く頭を下げ、踵を返す。
ゆるやかな足音が、石畳を下っていく。
セレスティアは、その背中が森に溶けていくまで、ただ立っていた。
やがて、音がすべて消えた頃。
彼女は息をつくように踵を返し、館の前庭に足を運ぶ。
そこにあったのは、黒く磨かれた木製のベンチ。
セレスティアは一歩、また一歩と近づき、静かに腰を下ろす。
セレスティアは、ひとつ小さく息を吐く。
その横顔には、疲れと静けさ、そしてほんのわずかな安堵があった。
風が、山を渡って吹き抜ける。
今日もまた、静かな日常が始まる。
そう――彼女の望んだ、穏やかな暮らしが。
午後の日差しが差し込む窓辺で、セレスティアは湯気の立つ茶器を手に、乾いたページを捲っていた。外は風もなく、静かな空気が満ちている。小さな花々が揺れる庭を眺めながら、彼女はそっと息をついた。
「……本当に、静か。」
数ヶ月ぶりに訪れた、望んだ通りの平穏だった。
あの黒髪の騎士が去ってからというもの、客間の扉が開くこともなく、魔力の気配を乱す者もいない。
ただ、ゴーレムたちは黙々と働き、ハーブはよく育ち、セレスティアの指先にはようやく穏やかな魔力の流れが戻り始めていた。
だが、その平穏が破られたのは――それは、不意のノックだった。
こん、と小さく、だが明確な音。
客の礼儀を弁えた者の、控えめだが確信に満ちた叩き方。
ならば――誰かが結界を抜けてこの館に、辿り着いたのだ。
扉を開けた瞬間、彼女の目に映ったのは、予想外の人物だった。
「やあ。変わらないな、セレスティア」
金糸混じりの栗毛を肩に流し、白の外套をまとった男が微笑んでいた。
彼女と同じく魔術の道を歩み、かつては王宮の研究棟で机を並べた男――フィリ・マリエン。
「……あなたが、なぜここに?」
「“他人のために力を求める者”――君らしい結界の選別だ。まさか、そんな詩的な判定式を組んでいるとは思わなかったよ。君らしい皮肉だと思ってね。」
セレスティアの口元がわずかに引きつる。
「……それを読み解いて来たのね。」
「読み解けるように作られていた、とも言える。僕が解読できる程度なら、本気で拒む気はなかったんじゃないかな?」
「そんなこと、あるわけないでしょう。」
彼女の返答は冷ややかだったが、フィリは気にする様子もない。
「どうやら僕は、入っても良さそうだ」
「いいえ。帰って」
「……おや、それは寂しいな。はるばる同僚の様子を見にきたというのに」
セレスティアの眉が明確に動いた。
「……呆れた、要件も言わずにどうするつもりなの」
セレスティアは一拍置いてから、ため息を吐いた。
「それでも、あなたを中には入れない。昔と変わらないのね。見せかけの謙虚さで、内心の欲を隠して」
「誉め言葉として受け取ろう。」
フィリは小さく肩を竦めたあと、懐から小瓶を取り出して見せた。
「……これ。手土産。王都の魔力泉から採取した希少なエルスエキスだ。君の“沈着式”の補助に使えるだろうと思って。」
「……!」
セレスティアは不意を突かれたように目を細めた。
確かにそれは、今まさに取り組んでいた魔術の調整に応用可能な高濃度触媒だった。しかし、王都から持ってきた分は使い切ってしまったので、どう調達しようかと考えていたところだったのだ。
「受け取るつもりはないわ。」
「じゃあ、ここに置いて帰るよ。あとは君の自由だ。……ただ、せっかく来たんだ、お茶くらいはいただけると嬉しい。」
そして彼は、セレスティアが一瞬視線を外した隙に、巧みに彼女の横をすり抜け居間へ入っていく。
「――あっ」
「ちなみに、結界を抜けたのは偶然さ。“他人のために力を求める者”になったのは、この小瓶の中の魔力のためだ。……君に届けるため、だろ?」
セレスティアは唇を引き結びながらも、扉を閉じることも追い出すこともせず、その場に立ち尽くした。