騎士団長リュカ
館のすぐそばの離れの客間へリュカを案内したあと、セレスティアは館へ戻り、作業場の扉をゆっくりと閉めた。
ここは、彼女だけの“工房”だった。
石造りの床に並ぶ魔術の紋、天井から吊るされた乾燥ハーブ、棚には膨大な魔術素材と記録書。
セレスティアは預かったジークのペンダントを手に取りそっと目を閉じた。持ち主の執念と、祈りが宿っている。
「……悪くないわ。この石、ジークという子の母の“意志”を、確かに受け取っている」
――風邪を引いた幼いジークを懸命に看病する母の姿。
――騎士団に入隊するために鍛錬を重ねるジークを心配し、じっと胸元で手を握っている光景。
「これほど“想い”が宿っているなら……可能性はあるわ」
セレスティアは机にペンダントを置き、周囲に転写用の結晶石、魔力を安定させる精霊樹の粉末、意志の媒介を安定化させる希少な紅水晶を配置していく。準備は、既に手慣れたものだ。
机の上に羊皮紙を広げ、呪文の構成式を書き出す。魔術回路の図を描きながら、脳内で配線と力の流れを精査していく。
『意志を繋ぐ媒介』――それは単なる治癒でも再生でもない。
心と魂を橋渡しする、精神干渉系の付与魔術。高度な計算と精密な意志の制御が必要だった。
深く息を吸い、儀式を始める。
術式陣が自動的に浮かび上がり、石床に淡い蒼光が走る。
ペンダントの周囲に設置された媒体が、彼女の詠唱に呼応して淡く振動を始めた。
古代語による呪文のひとつひとつに、セレスティアは魔力を込めていく。
「記憶の座標を保持する繋ぎ」「対象の生命紐帯を探る術式」「主を認識し、外敵を拒む結界」
「《過ぎし刻の記録を紡げ。今を越え、未来に繋がれ》」
魔術光がペンダントに吸い込まれ、純銀の装飾の奥に淡く金の筋が走る。
聞いたこともないジークの声が、うっすらと耳に響いた気がした。
「……守りたいものが、あるんだ」
セレスティアの手が止まる。
それは確かに、誰かの“想い”だった。命を賭してでも、大切なものを守ろうとする強い意志。
(……あの人と、似ているのかもしれない)
そして最後に、“繋ぐための回路”を設置する。
付与者、媒体、対象――三者が継続的に繋がるための、特別な回路。これを誤れば、媒体が壊れるか、最悪暴走する。
彼女は再び深く息を吐き、魔術の封印式を唱える。
「《刃が届かぬところに、想いが届かんことを。祈りは鎖とならず、絆とならんことを》」
光が天井にまで広がり、やがて静かに収束していった。
空気に残る魔力の余韻が、肌にひやりと絡みつく。
セレスティアは深く息を吐き、机の端に手を置いて体を支えた。
額にじんわりと汗が滲む。工程の中でも、もっとも神経を使う部分を終えたのだ。
ペンダントの中央、銀の環は今も微かに淡い金の光を内包している。
それは、付与魔術の火種――だが、今はまだ揺れている。定着はしていない。
「……ここからが肝心ね」
彼女は囁くように呟くと、そっとペンダントを魔法陣の中央に戻した。
この先、術式は数日かけて媒体に染み込み、完全に沈着する。その過程で魔力の均衡を保たなければ、暴走や拒絶反応の恐れもある。
だからこそ、急がせるわけにはいかない。
セレスティアが工房を出ると、外はすっかり昼になっていた。離れの扉を軽くノックする。
「リュカ、起きてる?」
数秒の沈黙のあと、扉が開いた。リュカは簡素なシャツ姿で現れ、夜明けの光を背にしながら軽く頷いた。
「どうだった?」
「工程は一段落したわ。だけど……完成じゃない。これから数日かけて、魔力の定着を待たなければならないの」
セレスティアは真剣な眼差しで彼を見る。
リュカは静かに頷いた。彼の眼差しには焦りよりも、深い信頼が宿っている。
「……ああ。お前の判断を信じてる」
そして、少しだけ表情を和らげた。
「それまで、世話になるとするよ。何か手伝えることはないか」
「あなたって、何かできたかしら……その、ここには仕事も戦闘もないわ」
セレスティアもまた、わずかに口元を緩める。
リュカは少し困ったように肩をすくめてみせた。
「……掃除でもしてみるか」
リュカが玄関脇に立てかけられた箒を無骨な手で握り、外を掃こうとしたその瞬間——ふわりと風が揺れ、館の扉が音もなく開いた。
……掃除ハ、ワタクシの領分。
木肌を思わせる滑らかな外装に、青緑の魔力紋が静かに瞬く。優美な肢体を持つゴーレムが淡い光をまといながら姿を現した。動作は静かで滑らか、けれどその瞳の奥に宿る意志は、職務への強い誇りを物語っていた。
そのゴーレムが両手を差し出すので、リュカは仕方なく彼女へ箒を受け渡す。彼女は一歩前に出て、まるでそれが聖剣であるかのように箒を受け取る。
彼女にとって、箒こそが剣なのである。
森の静寂に包まれながら、彼女は一陣の風のように作業を始めた。
その身のこなしは、まるで舞を踊るかのよう。
「セレスティア、その……彼女は?」
「『クリネス』よ。掃除用ゴーレム。私が手を出すより早いの」
「……なるほどな。他にもゴーレムがいるのか?」
「ええ、館のことは全てゴーレムで完結するようになってるわ。そういう設計だもの」
リュカは困惑して天を仰いだ。
「俺にできることなんてないじゃないか」
「そういえば、食事は食べた?」
セレスティアの問いに、リュカは頷いた。
「ああ、ゴーレムが持ってきてくれた」
「そう、じゃあ私も食べてくるわ」
セレスティアの言葉に、リュカは頷いた。
「ではこの館周辺を探索しても構わないだろうか。君のことだ、念入りな警戒魔術や結界で守っているのだとは思うが、万が一に備えて土地勘を頭に入れておきたい」
「構わないわ、『グレイス』に案内してもらって」
セレスティアはリュカの案内を、離れの管理と接客用を任せているゴーレム『グレイス』に頼み、昼食をとりに館へ戻ることにした。
その晩、セレスティアは調整に没頭していた。
長時間の魔術の微細な制御は、心身ともに疲弊をもたらした。
窓の外では、夜の闇が静かに山を包み、月の淡い光だけが彼女の作業机を照らしている。
深夜を過ぎてからも手を休めることなく、最後の呪文の仕上げに取りかかっていた。
ようやく魔術の収束が安定したと感じ、疲れた体を引きずるようにして床に就いたのは、夜明け直前のことだった。
普段は朝霧とともに起きる彼女が、翌朝に目覚めたのはすでに日が高く昇りかけた頃。
重いまぶたをゆっくりと開き、慌てて起き上がる。
「こんなに寝坊したのは久しぶりね」
静かな館の廊下を歩き、庭へと出ると、ふと目に留まったものがあった。
庭の中央に、見慣れない木製のベンチがひっそりと佇んでいる。
細かな木目が浮かび、朝の霧に濡れたその表面は、どこか温かみを帯びていた。
「……これは……?」
言葉少なに呟いたそのとき、足音が静かに近づいてきた。
黒髪を短く刈り込んだ男、リュカ・ゼルグランドが、ゆっくりと姿を現す。
彼の濃い黒い瞳は曇りなく、どこか鋭く光っていた。
「朝の鍛錬を終えた後、時間があったから作った。あまり見栄えは良くないが、休める場所くらいあってもいいと思ってな」
リュカは淡々と、無骨な口調でそう言った。
セレスティアはそのベンチの表面に手を置き、小さく息をついた。
「ありがとう……朝が少し楽になりそうね」
リュカは言葉少なに頷き、視線をそらす。
「それで、もうひとつ話がある」
言葉を続ける彼の声に、何かしらの緊張が混じっていた。
「昨日、森の奥で不思議なものを見つけた。お前にも見てほしい」
セレスティアは眉をひそめ、好奇心を押し殺せなかった。
「不思議なもの……?」