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リュカという男

 夜の森は、静寂と闇に包まれていた。


 風が梢を揺らし、かすかな音を立てては通り過ぎていく。その下を、ひとつの影が音もなく駆けていた。


 リュカ・ゼルグランド。


 彼は隠れ家から少し離れた林道を走っていた。手には短剣、背には軽装の外套。気配を殺し、地を這うように森を抜ける姿には、かつて王国騎士団に名を連ねていた男の技が滲んでいる。


 本来、この隠れ家には強力な結界が張られており、容易に外部の者が侵入できるような場所ではない。だが、それでもリュカは動いていた。


 確証はない。ただ、胸の奥に小さな違和感がひっかかっていた。それだけで十分だった。


(万が一ってのは、たいてい、備えてないときに来る)


 標的は、王都方面から現れた不審な人物。密偵が近隣に潜んでいるかもしれないという漠然とした勘を信じ、リュカは単独で行動に出ていた。


(ここだ)


 低木の影に身を潜めながら、彼は気配を読んだ。焚き火の匂い。乾いた土の踏み音。目の前にいるのは、一人。そして、背を見せている。


 リュカは呼吸を整えると、躊躇なく駆けた。


 風を切る音。短剣の刃が月明かりに閃く。密偵がこちらを振り返るよりも早く、その手首に刃が添えられた。


「動くな。声も出すな」


 低く鋭い声が森の中に溶けた。


 やがて、縛り上げた男の荷物から出てきたのは、魔術装置の設計図と、模造魂刻術に関わる通信記録。いずれも王都の研究所でしか閲覧できないはずのものだった。


(……ただの思い過ごしであってほしかったんだがな)


 リュカは男をそのまま王都の監視局に送り届ける手配をとり、夜のうちに隠れ家へと戻った。


 翌朝、セレスティアの机に、一通の書簡がそっと置かれていた。


 署名はない。ただ一言だけが、淡く記されている。


『敵は動いている。急げ』


 その朝、セレスティアは書斎に足を踏み入れた瞬間、机の隅に置かれていた一皿に目を留めた。


 サンドイッチだった。焼いたパンに、薄く切った鹿肉のローストとチーズ、そしてわずかばかりの野菜が挟まれている。けれどその形はどこかいびつで、切り口は斜めにずれていた。


「……クッキーにしては、ずいぶん雑な仕事ね」


「まさか、あなたが?」


 一瞬、冗談かと思った。だが、リュカは真顔だった。


「パンはクッキーが焼いた。鹿肉は俺が仕留めた。挟んだのも俺だ」


「……器用とは言い難いわね」


 セレスティアはわずかに笑い、椅子に腰を下ろした。


「でも、ありがとう」


 小さく呟くと、サンドイッチを手に取り、一口かじった。


 その日の午後、研究は難航した。設計した術式回路は、理論上は完璧なはずだった。だが、魔力を通すたびに構造が歪み、定着すべき力場が分裂してしまう。流れは断続的に途切れ、何度修正を加えても、次の問題が顔を出す。


 セレスティアの額には汗が滲み、視界もぼやけてくる。筆先は震え、何度目かの書き直しに、紙がすでに幾層にも重なっていた。


 ふと椅子にもたれかかろうとした瞬間、体が沈むようにぐらりと揺れた。


「……セレスティア」


 気配に気づいて振り返ると、リュカが眉をひそめてこちらを見ていた。


「顔色が悪い。休め」


「まだ途中なのよ。調整すれば——」


「外に出ろ。今すぐだ」


 有無を言わせぬ口調だった。彼の手がそっと彼女の腕を取り、書斎の扉へと導いていく。


 渋々ながらも立ち上がり、セレスティアは彼に従った。


 外の空気は澄んでいた。森の緑が風に揺れ、陽射しが木漏れ日となって足元を照らす。


 二人は温室の裏手、小道の先にある小さな木立まで歩いた。


「……深呼吸くらいはしろ。術式よりずっと簡単だ」


 不器用な優しさが、風よりも穏やかに胸に沁みた。


 こうして外で空を見上げるのは、いつぶりだろう。


 セレスティアはそっと息を吐いた。隠遁の選択は、自分がすべてを背負い込むためのものだった。過去と決別し、危険を封じるための場所。


 でも——ふと、思う。


(山に籠るのは、必ずしも一人でなくてもよかったのかもしれない)


 信頼できる誰かと、穏やかな時を過ごす。そんな未来を思い描くことさえ、自分には許されないと思っていた。


 けれど今、その“誰か”がいるとすれば——その姿は、隣に立つこの男の他には思い浮かばなかった。


 その夜、セレスティアは研究に戻った。頭も体も、さきほどよりずっと軽かった。


 だが翌日、装置の調整中にそれは起きた。


 新たに組み込んだ反応石が、術式の流れとわずかに噛み合わず、魔力の圧力が一点に集中する。


「——っ、まずい」


 術式のコアが共鳴し、机上の魔導具が高音を発し始めた。


 次の瞬間、強い光と衝撃波が辺りを包んだ。


 セレスティアが咄嗟に手で顔を覆ったとき、がしゃりと何かが倒れる音がした。


「下がれ!」


 声とともに、背中に温かな力が加わり、セレスティアは机から引き離された。


 爆ぜた魔力の余波が部屋を駆け抜ける。


 やがて静寂が戻ったとき、床には細かな破片が散らばり、部品のひとつが焼け焦げていた。


「……大丈夫か」


 リュカが、焦げた袖を気にも留めず、彼女を支えていた。


「あなた、怪我——」


「かすり傷だ。それより、お前が無事ならいい」


「どうして……すぐに来られたの?」


「魔力の気配が急に膨張した。あんな揺れ方、普通じゃない」


 そう言って、彼はわずかに眉を寄せた。


「お前のことは、だいたい分かるようになった」


 だがセレスティアが見ると、彼の手の甲には明らかな切り傷と、袖口の火傷が浮かんでいた。


「じっとして。手当てするわ」


 セレスティアが戸棚から布と軟膏を取り出すと、リュカは少しだけ顔をしかめた。


「そんなに騒ぐほどじゃない」


「騎士のくせに、こういう処置は大事でしょう」


「戦場じゃ包帯を巻ければ御の字だ」


 それでも、彼は黙って腕を差し出した。


 セレスティアの指先が、そっと傷に触れる。丁寧に薬を塗り、布で包む間、ふたりのあいだに静けさが流れた。


 その静けさが、なぜだかとても穏やかに思えた。


 言葉にならない想いが、ほんの一瞬、目と目のあいだを通り過ぎていった。


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