ロウラン家
カイル・ロウランの来訪は、いつものように物音も軽やかだった。
軋む扉を押して姿を見せた彼は、皮鎧の裾をはたきながら、片手に麻袋をぶら下げていた。その顔はどこか疲れていたが、目の奥には熱を宿している。
「よっ、お待たせ。道中、野犬に吠えられ、子供に石を投げられ、それでも品は守り抜いたぜ。感謝してくれてもいいんだぞ」
「本当なの?」
「まあ、半分くらいは脚色だ。けど無事に届いたってことで勘弁な」
カイルは麻袋を軽く揺らして見せた。
「ギルドで手配してたやつ。例の試作、これで進めるんだろ?」
「ええ、助かるわ」
セレスティアは、微かに安堵の表情を見せる。彼の手にあるのは、特殊加工された魔導反応石と希少金属の細工部品。王都から持ち帰るには、それなりの手間と信用が要る品々だった。
「これがあれば、安定稼働の可能性がぐっと上がるわ。ありがとう、カイル」
「はは、そう言われると照れるな。お礼は三食昼寝つきで頼むぜ。あ、できればあの美味いハーブティーも」
軽口を叩きながらも、カイルは『ストックル』に素材を預け、倉庫へと運ばせるよう頼んだ。荷を受け取ったゴーレムが静かにうなずき、部屋の奥の扉へと向かっていくのを見届けながら、彼はようやく息を吐いた。
「……それだけのつもりだったんだけどさ。ちょっと、話さなきゃいけないことがあってな」
彼の声に混じるわずかな陰りを、セレスティアは見逃さなかった。
「話って?」
カイルは麻袋の底から、一冊の古びた記録帳を取り出す。革の表紙は擦り切れ、角には王都公文書局の印が押されていた。
「これ、王都で偶然手に入った。レオン・ヴァリスタの遺体検分記録の写しだ。でも、何かがおかしい。記録の中身が後から手を加えられてた。署名したのは、ロウラン家に仕える文官だった」
「……それ、本当なの?」
セレスティアの声がわずかに揺れる。
「俺も最初は信じたくなかったさ。でも、記録そのものに施された封蝋の断面……いじった痕がある。書き換えたのは、おそらく内部の誰かだ。……そして、親父の関与が濃厚だ」
カイルは拳を握りしめ、言葉を飲み込むように唇を噛んだ。
「ロウラン家は、昔からヴァリスタ家と対立してた。裏で手を回したっておかしくない。レオンの死は……あれは、事故じゃなかったのかもしれない」
「やっぱり……」
セレスティアは静かに目を伏せた。喪われた過去が、また違うかたちで姿を現す。否応なく心が揺さぶられるのを、止めることはできなかった。
「……なんてな。いや、冗談じゃないけどさ」
カイルは椅子にもたれ、力なく笑った。
「俺、ずっと逃げてたんだ。家からも、親父からも、名前からも。でももう、そうもいかなくなってきた。たぶん、次に動く時は……正面からぶつかることになる」
その言葉に込められた覚悟は、明確だった。
ロウラン家。かつて自分を縛った名。その闇が、今またこの場所に影を落とそうとしている。
セレスティアはそっと手を胸に置く。そこにあるのは痛みでも、迷いでもない。新たに生まれた、確かな決意だった。
カイルが隠れ家を去ったのは、その翌日、朝靄の中だった。彼はいつものように軽口を叩き、肩に麻袋を掛けて森の道へと歩み出していった。
「おれも、そろそろケリをつけないとな。……親父と、ちゃんと話してこいって誰かに言われた気がしてさ」
肩に麻袋を引っ掛け、いつも通りの軽口を叩きながらも、その横顔にはためらいのない決意があった。
「ちゃんと戻ってきて。傷だらけじゃなくて」
「嬢ちゃん、俺を誰だと思ってるんだよ。そんな無様な真似、しないって。……たぶん」
そう言って笑い、彼は森の道を背に向けて歩き出す。
「たぶん、って」
「いやぁ、冒険者に絶対はねぇんだよ」
背を向けながらそう返す彼に、セレスティアは小さく笑った。
その背中に、彼女はそっと頭を下げた。誰かが過去と向き合うということが、どれほどの勇気を要するのか。彼女にもよくわかっていたから。
それからセレスティアは装置の完成に向けて、淡々と作業を進めた。
彼女の手は止まることを知らなかった。希少金属の組成を分析し、魔導反応石との干渉値を一つひとつ調整する。設計図には何度も赤い線が引かれ、書き直された魔術構文が紙面を埋め尽くす。
試作装置のコア部分は徐々に形を成し、彼女の頭の中ではすでに数十通りの展開が仮定されていた。集中が深まるにつれ、書斎には紙の音と魔力のわずかな反響だけが満ちていく。
失敗の記録も一つずつ整理されていった。何が足りないのか、何が過剰なのか。魔術と技術、その両方をつなぐ接点を探し続けながら、セレスティアはただ、前を向いていた。
書斎の一角には、ある日ふと手にした小さな箱が置かれていた。
中にあったのは、懐かしい黒革の万年筆だった。見覚えのあるその細身の軸を見て、セレスティアはそっと指でなぞった。
レオンが使っていたものだ。多くの設計の草案や魔術理論の走り書きをこの万年筆で記していた。革のペンケースも添えられており、長年使い込まれた傷跡が温かみを帯びていた。
(こんなところに……)
作業の合間に手が伸びた箱の中、何気なく見つけたその存在に、胸の奥がふと静かに波打つ。
彼女はしばしそれを見つめたのち、そっと蓋を閉じ、机の端に置いた。
(……想いに溺れている時間は、もうない)
そう言い聞かせながらも、心の奥底で、その感触のぬくもりがまだ指先に残っていた。