セレスティアの選択
翌朝、静寂を破るように門扉をノックする音が響いた。
応対に出たのは『グレイス』だった。来訪者を一目見るやいなや、静かに館内へと通す。
「お招きにあずかり光栄だよ、セレスティア。いや、招かれてはいないけど」
軽口混じりに現れたのは、宮廷魔導師フィリ・マリエンだった。
陽光をはらんだ栗毛の髪を風に揺らし、上質な旅装のまま館に入り込むその姿は、相変わらず軽やかで柔らかい。
「おかえり、って言えばいいのかな。君がここに戻ったと聞いて、どうしても来たくなってね」
「勝手に来たのね」
セレスティアは椅子から立ち上がると、少しだけ皮肉めいて言った。
「それで、わざわざ何をしに?」
「君が必要としそうなものを届けに来たんだ」
フィリは荷鞄から封じられた魔力結晶と、資料の束を取り出した。
「これ、かつて君が研究していた『魂刻術』の補助構文に関する未整理の文献。それと、術式の安定装置。魔力干渉の中和には役立つはずだ」
「……王宮の保管庫から?」
「まあ、古いものだったし、処分予定の中から……ね」
笑顔のまま肩をすくめるフィリ。その軽さは、親しみやすさと同時にどこか警戒を抱かせる。
「君が何をしてるか、ある程度は想像がつくよ。グラン・ヘルゼンの件、聞いた。君って本当に……どうかしてるよ、まったく」
「なら話が早いわ。彼らを止めるには、模造術式を壊さなくてはならない」
「壊す、か。やっぱり、そう来るんだね」
フィリは表情を変えず、けれどその声色に、ほんの僅か揺らぎが混ざった。
「君の術が使われている。それを“否定”するっていうのは、つまり、君自身の過去をも否定するってことじゃないのか?」
「違う。私は、私の過ちを正そうとしているの」
「それが“正しい”とは限らないだろう?」
穏やかな声だった。だがその裏に潜む野心と、理性の火が、セレスティアにはよく見えた。
「君の術は、再び王国を変え得る力がある。正しく運用されれば、死を超えられる。僕は、そう信じている」
「……フィリ。あなたはまだ、魔術の力で全てを救えると信じてるのね」
冷ややかにセレスティアが返す。
「私はもう、誰かを傷つけてまで魔術を証明するつもりはない」
「それでも、誰かがそれをやるんだよ。君じゃなくても、ね」
しばしの沈黙が書斎を満たす。
そしてセレスティアはゆっくりと口を開いた。
「だったら、私は……壊すために進む。たとえ、それがどれほど孤独でも」
フィリはそれ以上何も言わず、静かに肩をすくめると、書斎を後にした。
「……僕は王宮に戻るよ。もう少し奥の記録庫に心当たりがある。何か、君の助けになる資料が見つかるかもしれない」
そう言い残し、彼は扉の向こうへと消えていった。
廊下を抜けて外に出ると、そこにはリュカ・ゼルグランドがいた。建物の影、木立のもとで背を預けていた彼に気づき、フィリはふうと息を吐いた。
「……ああ、やっぱり君がいたか。まるで番犬のようだね」
「俺にできることなんて、これくらいだ」
リュカは目線を向けずに答える。その無愛想さに、フィリは苦笑した。
「不器用なやり方だ。騎士団はどうした」
「一時的な休みをもらっている……俺は、お前みたいに言葉を飾れない」
「飾ってるつもりはないよ。僕はただ、彼女を信じてる。……同時に、彼女の術がまだ使えると信じてもいる」
「それがお前の目的か」
「僕は、王国の未来のために生きてるつもりだよ。セレスティアも、君も、同じ道には立てない。でも……彼女が何を選ぶにせよ、それを見届けたいとは思っている」
しばらく沈黙が落ちる。風が木々を揺らし、葉の音が二人の間をすり抜けた。
「……あの人は、強いよ」
フィリの言葉に、リュカがふいと目をそらす。
「それでも誰かが支えなきゃ、立っていられないこともある」
「なら、せいぜい支えてあげなよ。君にしかできない形で」
フィリはそれだけ言うと、肩をすくめて踵を返す。リュカはその背中を見送りながら、かすかに目を細めた。
男たちの静かな対話は、朝の光に吸い込まれていった。
セレスティアは書斎に戻り、早速装置の試作に取りかかった。昨日届いた文献と魔力結晶を広げ、紙の上に術式を書き写す。思考は明快で、手も迷わず動いた。だが、確信は、なかった。
魔術の構造は整っているはずだった。過去の失敗点は潰し、複雑化した術式の流れにも安定化構文を噛ませている。なのに、彼女の胸には、妙な不安が残っていた。
(どこかで、何かが噛み合っていない。理論ではなく……感覚。魂刻術は、そういうものだった)
自分の魔術が“人の魂”という不可視のものに干渉する以上、論理だけで制御できない領域がある。かつて、レオンの魂を引き戻そうとしたときにも、それは確かに感じた。
数時間後、小規模な干渉実験を試みた瞬間、それは起こった。
光が一閃し、魔力回路がねじ切れたように弾ける。爆発こそ避けられたが、術式の核に仕込んだ制御結晶がひび割れていた。
セレスティアはその場に膝をつき、結晶を拾い上げる。
「……また、だめ」
疲労と焦燥がにじむ。額に手を当てたまま、机に突っ伏すように座り込む。
(違う……理論は間違ってないはず……でも、どうして)
彼女の指先には、微かな震えが残っていた。
数分の沈黙。蝋燭の火がわずかに揺れ、静寂の中で紙の端がめくれる音だけが響いた。
セレスティアは顔を上げ、窓の外を見る。
空は晴れているのに、胸の奥は曇っていた。
そんなときだった。扉を叩く音が響く。
「セレスティア様、冒険者、……来訪」
『グレイス』の報告に、セレスティアはゆっくりと立ち上がった。胸の奥に残る焦げ付くような失敗の感覚を押し込めて、扉を開ける。
そこには、風に焼けた皮鎧姿の青年が立っていた。旅の痕跡をそのまま背負ったようなその身なりには、擦れた革の匂いと、どこか自由な空気が漂っている。肩にかけた麻袋はずっしりと重そうで、口からは工具や巻物の端が無造作に覗いていた。
青年はぼさぼさの髪をぐしゃりとかき上げ、快活な声を響かせた。
「ご無沙汰してますな、麗しの賢女さま。お届け物のついでに顔が拝めるとは、今日は運命的ってやつかも。……って、泥だらけじゃポイント下がるな?」
その馴れ馴れしい口ぶりに、セレスティアは思わず苦笑を浮かべた。だが、カイル・ロウランの言葉の端には、確かに“知らせ”の気配が漂っていた。
まだ、終わらせるには早い――そんな予感が、静かに心を打った。