再起
帰ってきた。
森の奥、王都の喧騒からは遠く、木々のざわめきと鳥のさえずりだけが耳に届く静かな場所。
セレスティアが結界を抜けその場所に到着した瞬間、館の前の広場に整列するようにして、小柄な魔導ゴーレムたちが一斉に現れた。先頭に立つのは、主の仕事を長年補佐してきた『サーブリン』。その隣には、調理担当の『クッキー』、掃除の『クリネス』と『ピカリス』、物資管理の『ストックル』、修理を担う『メンテス』、来客対応の『グレイス』、畑を守る『ファーミン』、温室の『グリーンリ』、そして温泉を管理する『スパリス』まで、見慣れた顔ぶれがずらりと並ぶ。
ゴーレムたちは、一斉に魔力灯を灯し、柔らかな音とともにセレスティアを出迎えた。
「お帰り、なさいませ、……セレスティア様」
『サーブリン』が一歩前に出て、まるでメイドのように丁寧に頭を下げる。その所作に、セレスティアは小さく笑った。
「ただいま、サーブリン。……みんなも元気にしてたみたいね」
それぞれのゴーレムが音を立てて喜びを表現し、『ピカリス』が嬉しそうにぐるぐると彼女の周囲を回る。その様子に、リュカの表情も少し和らいだ。
「リュカ、ごめんなさい。私はすぐに書斎にこもるわ。急がなきゃいけないことがあるの」
「わかった」
短く返された言葉に、セレスティアはうなずく。そして一歩、館の中へ足を踏み入れた。
「サーブリン、書斎の準備をお願い」
「承知、いたしました」
『サーブリン』が静かに動き出し、セレスティアの後に続く。その視線の先には、久方ぶりに主を迎えた家の温もりが、そっと灯されていた。
セレスティアは机に座り、設計ノートを開く。白紙のページを前に、数瞬、息を止める。手元には古い回路石、そして封印していた記録媒体。まるで失った時間の続きを、いま取り戻そうとしているかのようだった。
「……模造品は、術式の安定領域が粗い。特にこの転位構文……“接続点”が甘い。そこを狙えるなら――」
彼女の目が研ぎ澄まされていく。思考が魔術の枠組みへと深く沈んでいく。筆はまるで自ら意思を持ったかのように動き、次々と理論が紙上に描き出されていく。
《魂刻構文/識別領域/逆位相干渉式》
模造された術式の共鳴波を解析し、強制的に崩解させる構文式。それは、本来なら“誰かを蘇らせる”ための魂刻術の応用ではなく、“その歪んだ真似事”を破壊する術だった。
(これが成功すれば、模造品の術式は暴走せずに崩れる。魂が“本物”でない限り、定着できないはず)
それは、魂刻術そのものを「否定」するのではない。偽物を破壊し、本物だけを残すための術。
セレスティアの筆は速く、正確だった。かつての彼女なら迷ったような部分にも、今はためらいなく線を重ねていく。まるで、眠っていた自分の魔術師としての誇りが、今になって蘇ってきたかのようだった。
「創ってしまったものは、壊せる。……私が、その責任を取る」
設計図の隅に、新たな名を書き込む。
《魂刻崩解装置/アントグラフ》
彼女は筆を置き、椅子に背を預ける。そのまま天井を見上げながら、静かに目を閉じた。浮かぶのは、あのとき止められなかった光景。レオンの死、王都からの追放、魂刻術に魅入られた自分自身。
(もう繰り返さない……今度は、止めるために)
そこへ、ふわりと香るハーブの匂い。そっと机の横に置かれたトレイの上には、湯気を立てるティーカップ。『サーブリン』が静かに立ち、ぺこりとお辞儀する。
「お疲れのようでしたので、お持ちしました」
「……ありがとう、サーブリン」
セレスティアは静かにカップを手に取り、ひと口啜る。舌に優しい甘みと微かな苦味が広がった。気が張りつめていた彼女の肩が、わずかに緩む。
その頃、外にはひとつの影があった。
リュカ・シュヴァルツは、玄関の横手にある古い木の傍に立っていた。
剣を背に、無言で空を見上げている。顔に風を受け、目を細めた。
彼はセレスティアと共にここまで来たが、口数はほとんどなかった。
ただ、黙って扉を開け、黙って荷を降ろし、そして、何も言わずにこうしてそこにいる。
「……いい天気だ」
誰に向けたでもないその言葉は、風にさらわれていった。
彼の視線は、家の窓へ向かう。そこには灯り。机に向かうセレスティアの横顔が、うっすらと見えた。懸命に何かを書き続けるその姿に、彼は何も言わなかった。ただ、目を細め、静かに見守っていた。
何も言わない。だが、その背中は確かに語っていた。
“俺はここにいる”と。
どれほど彼女が遠くに行こうと、どれほど心を閉ざそうと、彼はそこに立ち続けるつもりだった。
夜が来た。
蝋燭の灯りが、机の上でやさしく揺れている。魔術回路図は幾重にも重なり、石板とノートが隙間なく広がっていた。詠唱の構文、回路の接合点、干渉魔力の調整値――細部まで神経を研ぎ澄まさねばならない。
セレスティアの指先は疲労を滲ませながらも止まらない。試作回路を並べ、魔力の流れを確認し、失敗すれば即座に構文を書き換える。まるで呼吸のように、彼女の思考と技術が連続していく。
“壊す”ための魔術。それは、ただの破壊とは違う。
「偽物だけを、否定する」
その想いが、指先に込められていた。誰かを救うためではない。誰かを守るためではない。ただ、自分の魔術がもう一度、人の命を奪うことのないように。
セレスティアは筆を置き、窓の外を見た。
そこには変わらず、リュカの背中があった。
月が昇り、淡い光が彼の肩を照らしている。静かな、けれど確かな光景。
彼女は小さく微笑むと、呟いた。
「……もう少し、かかるわよ」
もちろん彼に届くはずもない。けれど、どこかで分かっている気がした。
リュカは、そのまま背を向けたまま、ゆっくりと頷いたように見えた。
夜風がふと窓から吹き込んだ。セレスティアは肩をすくめながらも、蝋燭の灯を守るように手をかざす。その動作すら、彼女にとっては過去と今をつなぐ“確かさ”だった。書斎には紙の擦れる音と、外の虫の声だけが響いている。どれだけ孤独でも、この瞬間だけは、彼女はひとりではなかった。
そしてセレスティアは、またペンを取る。
この手で、止めるために。守るために。そして今度こそ、終わらせるために。