執念
ヴァリスタ邸の談話室は、深紅の壁布と黒檀の調度に彩られ、外の喧騒から切り離された舞台のようだった。
セレスティアとグランはローテーブルを挟んで向かい合い、リュカは静かにその背後に立っている。
「魂を縛る技術は、もう終わらせるべきだわ」
セレスティアの声は静かだったが、確固たる意志が宿っていた。
「私は、命を弄ぶ道具にそれを使わせたくない」
グランは微笑を浮かべたまま、首をわずかに傾ける。
「やはり──理想に縛られている。だが、世界は理想だけでは救えない」
そのまま彼は立ち上がり、無言で一礼した。
「残念だ。だが、貴女に止めることはできないし、私は進むだけです」
銀の髪が揺れ、グランは談話室を後にする。その背に、セレスティアは何も言わなかった。静寂だけが残った。
グランが談話室を去ると、深紅の室内には重い余韻が漂った。
リュカは立ったまま、セレスティアの傍らを静かに見守っている。セレスティアは目を閉じ、小さく息をついた。
そのときだった。扉がわずかに開き、外套をまとった女が姿を現す。
あの夜会場で声をかけてきた、黒衣の女性──。
「また、お会いしましたね」
彼女はリュカを一瞥したが、特に警戒を見せる様子もなく、セレスティアにだけ語りかける。
「ひとつだけ、不利な貴女にヒントを。彼の執着の理由を教えましょう」
彼女の声には奇妙な静けさがあった。
足音もなく近づいた彼女は、低い声でそっと囁く。
「グラン・ヘルゼンの動機は、金でも権力でもない。あの男は、かつて最愛の妹──ティアラを喪いました」
セレスティアの瞳がかすかに揺れる。
だが黒衣の女は、その反応に深入りしようとはせず、懐から一枚の封書を取り出して机に置いた。
「これは彼の過去に関する一部。……あなたが知るべきことです」
そして、まるで自らの痕跡を残さないかのように、女は再び部屋を去っていった。
扉が閉じると同時に、深紅の調度と沈黙だけが残された。
机の上に横たわる一通の手紙。
セレスティアは、その封に手を伸ばすことなく、ただしばらく見つめていた。
「……どうか、お気をつけて」
そう言い残し、黒衣の女は扉の影に紛れるように姿を消した。
談話室には再び静寂が戻る。
セレスティアは手元の封書に目を落とした。重厚な蝋封の印――王宮直属の文書を示す印章。
ためらいながらも指先で蝋を割り、丁寧に開封する。
中にあったのは一通の報告書だった。
そこには十数年前、グラン・ヘルゼンという名の青年が、妹ティアラを不治の病で亡くした記録があった。
「……七歳……?」
ページの端に挟まれていた手紙は、おそらくティアラのものだった。
幼い字で、「おにいちゃん、ずっといっしょにいてね」と綴られている。
セレスティアはそっと手紙を閉じた。
胸の奥が冷たくなる。理解した――彼はその言葉を、いまだ叶えようとしているのだ。
リュカが小さく呻いたように口を開く。
「セレスティア……」
彼女は顔を上げる。「行きましょう」とだけ言って、談話室をあとにした。
ヴァリスタ邸の二階、細やかな彫刻が施されたベランダには、夜の冷気が静かに流れ込んでいた。
パーティーのざわめきはすでに薄れ、遠くから音楽と人々の笑い声が幽かに聞こえてくる。
月明かりの下、ドレス姿のセレスティアと黒衣の騎士・リュカが並んで立っていた。
「今夜は……ありがとう、リュカ」
セレスティアは、街灯の下で足を止めると、彼の顔をそっと見上げた。
ドレス姿の彼女はいつもよりずっと柔らかく、どこか儚い印象すら帯びていた。
「無事に終わって何よりだ。だが、あの男……グランは、やはり何かを隠している」
リュカの声音は静かだが、確かな警戒がにじんでいる。
「ええ。きっと、まだ始まりにすぎない。でも……今夜は、もう思考を止めたいわ。いろいろ、整理しきれない」
「わかった。今日は休め、セレスティア。お前が何を選ぶにせよ――」
彼は口を閉ざし、少しだけ視線を外した。
「……その時は、また剣を貸そう」
その言葉に、セレスティアはわずかに目を見開いたが、何も言わなかった。
代わりに、ただ静かに頷き、ゆっくりと背を向けた。
その夜、用意された客間のベッドで、セレスティアは深く身を沈めていた。
外されたドレス、ほどかれた髪、薄いガウン一枚の肩先に、夜の冷気がそっと触れる。
さっきまでのざわめきが嘘のように静かな空間。
手元のカップには、もう冷めかけた白茶が残っていた。
(……ティアラ)
黒衣の女が囁いたその名が、何度も思考を回る。
グランの妹。病に倒れた少女。
もしも、彼が今も妹を喪った悲しみの中にいて、あの時のまま時間が止まっているのだとしたら。
(……それでも、私は、止めなくちゃいけない)
しかし、その想いに自身の心が応えきれていないことも、彼女は知っている。
翌朝、レイナが用意してくれた朝食を前に、セレスティアは言った。
「レイナ、ひとつお願いがあるの」
レイナは表情を変えずにナイフを置き、彼女を見つめ返した。
「……帰るのね?」
セレスティアは頷く。
「魂刻術の模造品、それを対抗する魔術を作る必要がある。作業部屋へ戻らなくては」
レイナはしばらく黙っていたが、やがて息を吐き、微笑んだ。
「あなたがそう言うなら、私は止めないわ。……でも、いつでも戻ってきて。あなたは私の弟の婚約者なのだから」
「ありがとう、レイナ。……感謝してるわ」
ふと立ち上がったセレスティアは、椅子の背にかけられた外套を手に取る。
その布地が、静かに空気を切る音がした。
「それと……ひとつ頼みがあるの。グランの動きと、ティアラに関する情報……少しでも分かったら、教えて。彼らを知ることが、この装置の完成にも繋がる」
「ええ、必ず」
うなずいたセレスティアは、軽く礼をして背を向ける。
出発の背中に、レイナの柔らかな声がかけられる。
「行ってらっしゃい、セレスティア。……そして、必ず帰ってきて」
その日の午後、セレスティア・アルヴェインは、誰にも知られぬ山奥の隠れ家へと戻った。
かつて彼女が魔術と共に生きた場所。
そして今――魔術によって、再び“生きよう”とする場所だった。