決戦の社交場
セレスティアが指定した喫茶室は、王都の片隅にひっそりと佇む静かな店だった。木の扉をくぐると、柔らかな光が差し込む窓辺の席に、フィリ・マリエンが先に座っていた。
「やあ、セレスティア。無事で何よりだ」
「来てくれたのね」
二人は久しぶりの再会を交わし、軽く挨拶を交わした後、テーブルの上には模造された魂刻器と、カイルが持ち込んだ設計図の写しが並べられた。
「これが、その実物?」
フィリが模造品を手に取り、繊細な彫刻を目でなぞる。
「……なるほど。魂の接続部に、君の旧い理論が使われている」
セレスティアは小さく頷いた。
「やっぱりあなたもそう思うのね。これには、かつて私が研究していた《還魂計画》の初期技術が使われている」
「還魂計画……」
フィリの目が曇る。
「君がレオンを失ってから本格的に関わったと聞いている。彼を失った悲しみが、君を突き動かした」
セレスティアは唇を噛んだ。
「そう。でも……あれは危険な計画だった。私は最終的に研究成果を破棄し、計画自体を凍結させた」
フィリは真剣な顔でうなずいた。
「それを知っているのは、ほんの一握りの者だけだ。にもかかわらず、その技術を使った設計図がロウラン家の館から出てきた。しかも、その模造品がレイナ嬢――レオンの姉――の手に渡っていた」
「彼女がそれを持ってきたとき、私は正直、目を疑ったわ。設計図だけなら、どこかで盗まれたのかとも思えた。でも……まさか実物が存在していたなんて」
セレスティアの声には怒りと痛みが滲んでいた。
「それに加えて」
フィリが続ける。
「灰灯の商人グランの動向も気になる。彼の商会の印が、この設計図に刻まれていた。模造品の流通ルートにも彼が関わっている形跡がある」
「レイナによれば、グランはかつて、何度かレオンと密会していたそうよ。婚約者だった私ですら知らなかったこと。……彼が還魂計画に興味を持っていた可能性は高い」
フィリはしばらく黙った後、ふっと小さく息を吐いた。
「そして、君はその後……国王の前で無実の罪を着せられた。還魂計画を利用しようとする誰かにとって、君は邪魔だったんだろう」
「……その時、リュカが捕らえに来たわ。彼はただ、命令に従っただけ。でも、あの瞬間を私は忘れられない」
静かな店内に、かすかな食器の音だけが響いた。
「でもね、フィリ。私はもう逃げない。私の手で断ち切ったはずの過去が、今また人の手で歪められている。これ以上、魂を弄ぶ者を野放しにはできない」
フィリは、わずかに目を細めた。かつて研究にすべてを捧げていた友が、再び歩き出そうとしている。その姿に、かすかな誇りを覚えていた。
「君が決意したのなら、僕は協力するよ。……それが、友としての僕の役目だ」
セレスティアは、小さく微笑んだ。
「ありがとう、フィリ。パーティーが始まったら、すべてが動き出すわ」
朝霧がまだ街を包む頃、セレスティアはヴァリスタ公爵家の館へと足を運んでいた。パーティーの準備のためにとレイナに呼ばれたのだが、館に着くなり侍女たちに囲まれ、髪を解かれ、肌を整えられ、次々に装飾品をあてがわれていく。
まるで儀式のようだった。
「……こんなこと、何年ぶりかしら」
鏡の中、見慣れない姿の自分がいた。肩を露わにした紺青のドレスは、夜空に星を散りばめたような繊細な刺繍が施され、裾はゆるやかに広がって足元を彩っている。髪はまとめ上げられ、耳元には揺れる銀の飾りが一対。派手ではないが、気品を漂わせるその装いは、かつて研究室にこもっていた己を遠い過去のように思わせた。
戸惑いが胸を掠める。
「……こんな姿で、どうすればいいのかしら」
手袋をはめながら、セレスティアが苦笑まじりに言うと、レイナは振り返ってそっとその肩に手を置いた。
「胸を張って、セレスティア。あなたは、この場に立つべき人間よ」
その言葉には、真っ直ぐな信頼がこもっていた。
セレスティアは困惑しながらも、ヴァリスタ邸を出るため、大玄関の階段を降りていく。
大理石の階段の下に、リュカ・ゼルグランドの姿があった。いつもの軍装ではなく、深い藍の礼装に身を包み、髪を軽く後ろに束ねている。彼女に気づくと、ほんのわずかに目を見開いたが、すぐに表情を引き締め、無言で歩み寄ってきた。
セレスティアは思わず立ち止まり、小さく息を呑んだ。
「……あなたがエスコート?」
セレスティアが驚き混じりに問いかけると、リュカは静かにうなずいた。
「レイナ嬢に頼まれた。あの日のことは謝罪しない、今でも帰るべきだと思っている。だが……止められないなら、せめて傍にいる。それが俺の答えだ」
「……そう」
セレスティアは視線を逸らしかけたが、そのとき――
「似合ってる」
ふいに告げられたその言葉に、彼女はぴたりと動きを止めた。
「え……?」
リュカは変わらぬ無表情のままだったが、わずかに視線を下げ、セレスティアのドレス姿を見ていた。
「ドレス。見慣れないが、悪くない」
その不器用な褒め言葉に、セレスティアの頬がかすかに赤く染まる。
「……あ、ありがとう。でも……本当に慣れてないのよ、こういうの」
目を逸らし、ドレスの裾を指先でそっとつまむ。いつもの研究着とはかけ離れた装いに、どうにも落ち着かない。けれど、不思議とその言葉は、心の奥で温かく灯った。
リュカはそのまま手を差し出す。
「行くぞ」
「……ええ」
戸惑いを飲み込んで、セレスティアはその手を取った。
会場へ入場すると、まばゆい光が降り注いだ。豪奢なシャンデリア、煌びやかに着飾った人々、壁際に並ぶ楽団、空中に舞う香のかすかな煙。そのすべてが、セレスティアの神経を過敏にする。
セレスティアは、リュカの腕を借りながら一歩ずつ大理石の階段を下りていった。足元から広がる絨毯の感触が、いつになく遠い現実のように感じられた。
「……ずいぶんと、場違いな場所ね」
小さくつぶやいた声に、リュカは返事をしなかった。ただ、横顔だけがどこまでも真剣で、彼なりの覚悟を語っていた。
やがて、視界の端に――その姿が映る。
グラン・ヘルゼン。
端正な笑みと流れるような所作、そして誰もが名を知る貴族たちと気軽に言葉を交わしているその姿は、まるで社交界の中心にふさわしい存在のように見えた。
――だが、あの男の本性を、誰も知らない。
セレスティアの背筋に、冷たい緊張が走る。正面から話しかけるべきか。それとも、自然な偶然を装うべきか。どんな言葉を選ぶかで、すべてが変わる。
(どうやって、あの男に接触すべきか……)
ワイングラスを手に、視線を周囲に巡らせるが、彼女の知る顔はほとんどいない。レイナは貴族たちと談笑しており、助言を仰ぐには距離がありすぎる。
焦りと戸惑いが、ひそかにその胸を満たしていく。
そのとき
「お困りですか? アルヴェイン嬢」
背後から、凛とした低い声が響いた。
セレスティアはわずかに肩を震わせ、振り返る。そこに立っていたのは、一見してこの場の誰とも異なる雰囲気を纏った女性だった。黒のシルクのドレスは簡素だが仕立ては極めて良く、長い黒髪を巻き上げずにそのまま垂らし、青い瞳は鋭くも静かにセレスティアを見つめている。
「……どなた?」
セレスティアが問いかけると、その女性はわずかに微笑んだ。
「名乗るには及びません。ただ――私たちは、共通の敵を持っているかもしれません」
「……共通の敵?」
「“灰灯の商人”と呼ばれる男に、あなたは接触したいのではありませんか?」
ドクン、と心臓が跳ねた。