決意
「話があります。弟の、そしてあなたの未来に関することです」
その声は冷たい山の空気を切り裂くように、はっきりとした輪郭を持って響いた。
セレスティアは足を止め、レイナの真剣な眼差しを静かに受け止める。
あの結界を破って現れたということ、それ自体がすでに尋常ではない。しかも、それを彼女は当然のことのように受け止めていた。
「魂刻術は、“想い”と“記憶”の術だと伺いました。ならば、この館を包む術が『想い』によって拒むものなら……私は、通れると信じていました。」
その言葉には、確かな熱と決意があった。セレスティアはわずかに目を細め、その覚悟を受け取るようにひとつ頷いた。
場所を談話室へと移す。館の奥、陽が差す窓際には、古びたソファと数脚の椅子。そこに二人が向かい合うと、『グレイス』が音もなく茶を運んできた。
銀の器に湯気が立ちのぼる。が、レイナの指先は、それを口に運ぶ前に懐へと伸びていた。
彼女が取り出したのは、小さな木箱だった。深い焦げ茶の木肌に金属の留め具。開かれると、その中には掌ほどの金属製の器具が丁寧に納められていた。
「これを、見てください。最近、王都の外縁で見つかった“模造魂刻器”です」
セレスティアは、それを一瞥しただけで息を呑んだ。
黒鉄の鈍い光。魂刻構造を模して作られた“それ”は、まさしく──
「……この設計、まさか……」
あの時、カイルが持ち込んできた図面。
精緻な筆致で描かれながら、どこか決定的に欠けていた、理論の穴。
ただの思索、理論遊びの産物だと思っていた。まさか、それが──実在するとは。
「まさか、本当に存在していたなんて……」
「使用者は記憶障害を起こし、場合によっては意識を失うこともあります。暴走した個体は、術式が拡散し、周囲を傷つける例も……」
セレスティアは器具から目を離せなかった。
不完全な模倣。術式構造の再現性は危うく、記憶を扱うにはあまりにも粗雑すぎる。
いや、だからこそ暴発する。魂刻とは、精度と“想い”の強度がすべて。甘く見れば命を喰う。
「……こんなものを……誰が……」
「出所は“灰灯の商会”の流通経路に一致します」
その名を聞いた瞬間、セレスティアの瞳が静かに揺れた。
「……グラン・ヘルゼン……」
魂刻器を見つめる眼差しに、わずかな怒りと痛みが浮かぶ。
グラン。その名は過去から彼女を呼び戻す、不吉な鐘の音だった。
「実は、彼はかつて弟……レオンの屋敷に出入りしていました」
レイナはさらにもう一枚の文書を取り出した。
手書きの出入り記録、印の押された報告書には、五年前の記述がいくつも残されている。
“グラン・ヘルゼン来訪”、その名前がいくつも浮かぶ。
「公的な取引ではありません。すべて、私的な訪問として処理されていました。ですが、時期を見てください──“魂還計画”が動いていた頃です」
セレスティアの喉が、乾いたように痛んだ。
レオンの顔が、ふと脳裏をよぎる。誠実で、理知的で、真っ直ぐすぎた男。
政略結婚から始まった関係だった。だが、彼はセレスティアを本当に愛してくれた。
セレスティアも、自ら決めた選択として、彼を受け入れようとした。
リュカへの未練を胸に秘めながら、それでも彼を信じ、共に研究の未来を築こうと――
だが、彼は死んだ。
理不尽な事故とされ、真相は闇の中に消えた。
その闇に、グランの影があったとしたら?
「これらの模造品と、レオンの死。魂還計画とグランの動き……すべてがつながっているように思えてなりません」
レイナの声には怒りと悲しみが混じっていた。
彼女にとっても、弟はかけがえのない存在だったのだ。
「魂刻の術も、魂還計画も、あなたと弟が命をかけて育てたものです。だからこそ、今それを止められるのは、あなたしかいない」
静かだった館の空間に、レイナの言葉が重く落ちた。
セレスティアは立ち上がり、静かに『サーブリン』を呼んだ。
「……サーブリン。支度を」
『サーブリン』は一礼し、すぐに奥へと下がっていく。
その瞳が、どこか優しく瞬いた。誰かの面影を写したように。
セレスティアは魂刻器を見つめ続けながら、最後に言った。
「……終わらせなければならないわ。この術を。あの計画を。そして、私自身の責任を」
そうでなくては、セレスティアの望む平穏がやってくることはないだろうから。
レイナが去った後も、セレスティアはしばらく談話室に留まり、何もない空間を見つめていた。思考の海を泳ぐように、ゆっくりと意志が形になっていく。
逃げることを選んだ日から、もうどれだけの時が流れたのだろう。
けれど、魂刻という術が人の手に渡り、模造され、誰かを傷つけるとすれば――
それを止められるのは、自分しかいない。
「……覚悟を決める時が来たのね」
静かに自分へ言い聞かせ、セレスティアは執務机に向かう。
羽ペンを取り出し、久しぶりに便箋に筆を走らせた。
一通目はフィリ・マリエン宛。
これまでの経緯に触れすぎないよう慎重に言葉を選びつつ、魂刻に関わる不穏な動きがあれば連絡がほしいとだけ記した。研究資料の一部の保管も頼むつもりだ。彼なら、気づいてくれると信じて。
二通目はリュカ・ゼルグランド宛。
筆は何度も止まり、書きかけの便箋がいくつも重なった。
やがて、ようやく一通に思いを込める。自分が再び歩み出すこと、そしてその歩みが遅くとも、必要な時には彼の剣がそばにあると信じていることだけを書いた。
三通目は冒険者ギルド、ギルドマスターのマリッサ宛。
宛名を書く手がわずかに止まり、セレスティアは一瞬、あの粗野な冒険者――カイルの顔を思い浮かべて、わずかに眉を寄せた。
けれど、彼の名は書かない。あくまで魂刻関連の不穏な動きがある可能性を伝えるだけ。マリッサなら、真意を汲んでくれると信じていた。
三通の手紙を封蝋し、荷をまとめる。
旅装は簡素に。変装用のローブと、最低限の研究道具。そして、レイナから預かった模造魂刻器。
玄関先まで見送りに出てきた『サーブリン』が、寂しげな目で彼女を見上げる。
「留守を頼むわ。戻ってこられるかは……わからないけれど」
そう言うと、『サーブリン』は小さく頷き、静かに扉を開いた。
結界を越えた冷たい風が、彼女のローブを膨らませていった。
王都へ入るのは、五年ぶりだった。変わらぬ石畳の路地、見慣れた塔の輪郭……しかし、そこに自分の居場所はもうなかった。
セレスティアの実家は、彼女の失脚の後、跡継ぎのいないままに病死した両親によって名実ともに滅び、今は別の家の屋敷になっていた。立ち寄ることもなく、彼女は市内の外れにある簡素な宿へ部屋をとった。
人目を避け、ローブのフードを深く被ると、セレスティアは宿の一室で模造魂刻器を手に取り、静かに見つめた。
「やっぱり、これは……あの設計図のもの」
それは、かつてカイルが持ち込んだ、あの未完成の設計図と一致していた。まさか本当に実在していたとは。
――誰が、どうやって?
すぐに名前が浮かぶ。グラン・ヘルゼン。灰灯の商人。その商会が製造元である可能性を、レイナの証言が補強する。
あの時、レオンは何を思ってグランと会っていたのか――。
あの人は、私を守ろうとしていたのか。
それとも、技術を……?
思考が暗く沈みそうになるのを振り払い、セレスティアは立ち上がる。
「まずは、足元から。情報を集めないと」