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付与魔術師は己がために

 王都セリオスから遠く離れた、標高二千メートルを超える霧深き山の奥。

 鬱蒼と茂る原生林の奥に、誰も知らぬ一軒の古びた家があった。


 石造りの土台に、苔むした木造の小屋。庭には季節の花と香草が植えられ、温室には南方から取り寄せた薬草が整然と並ぶ。まるで長年世話をしてきた宝石のように、ひとつひとつが慈しみに満ちて育っていた。まだ霧の晴れない早朝だというのに、小屋の周囲には魔力で動くゴーレムたちが動き出し、薪割りや水汲み、庭の手入れまで淡々とこなしている。


 温かい湯気の立ち上るティーカップを手に家から出てきたのは、一人の女性。セレスティア・アルヴェイン。

 淡銀の髪を緩く編み、深緑のローブを羽織る彼女は、誰が見てもただの薬師か隠遁者のように見えるだろう。だがその正体は、かつて王宮に仕えた「最強の付与魔術師」その人であった。


「……今日も平穏、よね」


 セレスティアは玄関外の切り株に座ると、ハーブティーを冷ますようにふぅっと息を吹きかけた。

 かつての彼女を知る者なら、その笑みにどれほどの疲労と諦念が込められているか、察することができただろう。


 かつて王宮で彼女は“奇跡の手”と呼ばれていた。剣に〈鋭利〉を、盾に〈不壊〉を、鎧に〈軽量化〉を。彼女の付与魔術は戦場の勝敗すら左右し、名声は国中に轟いた。だが、功績を妬む者たちは後を絶たず、やがて無実の罪を着せられた。陰謀と裏切りが渦巻く宮廷に疲れ果て、すべてを捨てたのが五年前のこと。


 セレスティアはハーブティーの湯気越しに、朝霧に包まれた庭を見渡した。

 小鳥が巣に餌を運び、ゴーレムが慣れた手つきで畑の土を耕している。かすかに風が吹き抜け、乾いた木の葉がさらさらと音を立てた。


「この静けさ……悪くないわ」


 朝は薬草の世話から始まる。根の様子を確かめ、水分と魔素のバランスを見ながら、一本ずつ手入れをする。温室では〈陽光付与〉で育てた南国の草花が鮮やかに咲き誇り、香りの強いラベンダーやセージが風に揺れていた。


 昼前には、魔道具の調整や、新しい付与式の試作にも時間を取る。

 誰のためでもない、自分だけのための研究。誰にも強いられず、裏切られず、ただ静かに魔術と向き合える時間。それが、今の彼女にとって何よりの贅沢だった。


 午後には読書。古代語の魔道書からはるか遠くの国のロマンス小説まで、テーマは気分次第。おやつには自家製のハーブクッキーと蜂蜜入りの茶を添え、たまにはうたた寝もする。


「これ以上、何を望むっていうの……」


 そう呟いた彼女の瞳に、一瞬だけ陰が射した。

 過去の記憶が胸を掠めるが、それを追い払うように、彼女はそっと微笑む。


「誰も来なければ、今日も良い一日になりそうね」


 そう、誰も来なければ。

 セレスティアは椅子から立ち上がり、眉をひそめた。

 結界の内側に、誰かが――入ってきた。


 瞬時に警戒し、魔力を指先に集める。


 霧深い森の奥、静寂を切り裂くように現れたのは、漆黒の髪を背に垂らし、鋼のように冷たい碧眼を光らせるセレスティアのよく知る男。


「……リュカ・ゼルグランド」


 思わず名前が口をついた。

 王宮時代、数少ない“信頼できた”騎士のひとり。


 彼は何も言わず、ただ静かに彼女の方を見ていた。

 やがて、口を開く。


「……助けてほしい。部下が、呪詛を受けた。俺には剣しかない。これは俺の剣では救えない命だ」


 あの頃と変わらぬ、まっすぐすぎる声音だった。

 けれどセレスティアは、すぐに言葉を返さなかった。



「帰って」


 それだけを、静かに告げた。


「……っ」


「今の私は、もう“宮廷魔術師”じゃない。人を救うために力を使うことは、もうしない。そう決めてここに来たの」


「……セレスティア」


「誰の命が関わっていても、私は関係ない。……それが、ここでの私の“平穏”なの」


 セレスティアは扉を閉めた。



 不運なことにその朝、霧は晴れず、雨が降り始めた。細かい霧雨が地を濡らし、空気は冷え込みを増していく。


 それでも、リュカは立ち続けていた。


 朝からずっと、ひとことも発さず。

 ただ、彼女の扉の前に、静かに立ち尽くしていた。

 雲の向こうではすでに日も暮れ、夜になろうとしている。今夜の雨は、冷たいだろう。


「……馬鹿ね」


 セレスティアは窓の隙間からその姿を見つめ、吐き捨てた。

 心のどこかが、ざわついて仕方がない。


 朝になっても、彼は動かなかった。

 剣の柄に手を添えたまま、目を閉じ、まるで何かを祈るように。


 セレスティアは、そっと扉を開けた。


「……中に入りなさい。身体が冷えてあなたが動けなくなったら、本末転倒よ」


 その一言に、リュカはただ頷き、言葉少なに頭を下げた。




 あたたかいハーブティーが再び湯気を立てる。

 向かい合って座る二人の間に、沈黙が流れる。


 セレスティアは静かに、彼の話を聞いた。


「助けたい男はジーク・レイフ。忠義深い男だ。呪詛に侵され、意識を失った。呪いは解けたものの、意識が戻らない」

 正規の治療ではどうにもならず、最後にすがるように思い出したのが、彼女だったという。


「これはジークが母親から譲り受けたペンダント……肌身離さず身につけていたものだ。これを使い、付与してもらいたい。“意志を繋ぐ媒介”として」


「……付与魔術のことをよくご存知だこと」


 セレスティアはリュカの差し出した小さなチェーンペンダントをそっと手に取った。

 手触りは冷たく、ペンダントトップには細かな細工が施された銀製の小さな輪がついている。輪の縁は欠けて丸みを帯びており、何世代にもわたり受け継がれてきたことを物語っていた。


「……これなら“意志を繋ぐ媒介”の鍵になるわね」


 彼女は軽く息をつき、視線をリュカへと戻す。

 そこには、剣だけでは救えない部下を想う騎士の揺るぎない決意があった。


「私に付与すべき力の質は?」


 リュカは短く言った。


「生命の呪詛を緩和し、彼の生命力を支える魔術だ。しかし、それだけではなく――ジークの“意志”が消えないように、このペンダントを通じて繋ぎ止めてほしい」


「数日かかるわ」


 リュカはその言葉を聞くと、少し眉をひそめながらも黙って頷いた。


「わかった。」


 セレスティアは少しだけ迷ったが、提案した。


「その間、離れの客間に泊まっていけばいいわ」


 リュカは驚いたように目を見開いたが、すぐに微かな笑みを浮かべた。


「離れか……わかったよ。まあ、こういう静かな場所にいるのも悪くない。」


 セレスティアが少しだけ微笑み返すと、リュカは軽口を叩いた。


「それにしても、もう一緒に寝ることはないのか? 昔みたいに」


 その言葉に、セレスティアはぴしゃりと言った。


「昔と今は違うのよ。今は……ただ、静かに過ごしたいだけ。」


 リュカは真剣な顔で頷きつつも、どこか寂しそうだった。


「……セレスティア」


 リュカの言葉がどこか熱を帯びているように聞こえて、セレスティアは耳を塞いだ。

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