第46話「生体認証」
「この壁、少し歪んでる」
そこは三人が通路を後戻りし、分岐からたどり着いた小部屋だった。そこの通気口の脇にある金属パネルにマリアが指を這わせると、かすかに音がした。表面は錆びていたが、どこか人工的な痕跡が残っていた。
「ここ部屋の天井配管が、あの映像に映ってた配管と完全に一致してる気がする。あの部屋に繋がる経路がこの奥かもしれない」
「どれ、貸してみな」
リュウジが拾ってきた金属棒をパネルの隙間にねじ込むと、案外簡単に外れた。内部には埃にまみれた古い搬送シャフトがあった。半ば崩れかけているが、奥へと続く梯子がわずかに残っていた。
「おそらくここね。間違いなさそう」
マリアが奥を覗き込んだ。
「おい、本当に行くのかよ。こっから先、マジで戻れなくなるかもしれねぇぞ」
リュウジがあきれたように言う。
「それでも、行くしかない」
神崎が言うと、マリアも無言で頷いた。
三人が搬送シャフトを下り始めたとき、不意にリュウジが言った。
「なあ、マリア。お前、本当に何も知らねぇのか?」
マリアは立ち止まり、振り返る。
「何を?」
「さっきの声、あんたにも聞こえただろ」
「聞こえたわ。でも私には思い当たることなんてない。少なくとも、今は」
マリアはそう言うと、また黙って先に歩き始めた。リュウジは神崎に向かって肩をすくめたが、それ以上は何も言わなかった。
やがてシャフトの底に到達すると、そこには厚い金属扉があった。傍らには、廃棄されたような認証端末がついている。壊れているようにも見えたが、神崎が近づいたその瞬間——
ピッ――カシャッ
低い電子音が鳴って、かすかな解錠音がしたのは、神崎が扉の前に立った瞬間だった。
「なんだ? 勝手に扉が開いた――」
神崎は一歩退いて様子を伺う。だが、確かに扉の上の解錠を示す小さな緑のランプが光っている。
マリアが黙って端末に目を凝らした。
「たぶん生体認証よ。あなたに反応したみたい。でも、ここは公式ルートじゃないはず。どうしてこんな端末に、そんなデータが……」
「いや、わからねえ。だが、扉が開いたことは間違いない」
俺が来るのを誰かが想定してたってことか――
やはり罠かもしれない――神崎はそんなことを思いながら、慎重に目の前の扉に手をかけた。重たいはずの扉は、まるで誰かが内側から開けるのを待っていたかのように、わずかな力で音もなく開いた。
その先の空間は、異質だった。鉄とコンクリートの無骨な施設ではなく、どこか実験施設然とした静寂と冷たさが支配していた。天井は高く、床は磨かれた金属プレート。奥の壁には大きなカプセルのような装置が据え付けられていたが、今は稼働していないようだった。
「なにかの研究棟、か? 妙にきれいな場所なのに、ここまで無人とはな」
リュウジが部屋をくまなく見渡した。
「いや、最近まで誰かがいた気配はあるわ。機材も、床も昨日まで人が出入りしていたような痕跡がある」
マリアが言う。神崎は、装置の脇に積まれたファイルとタブレットのような機器に目をやった。確かにホコリさえも積もっていない。それだけで、この空間がまだ生きていることを示していた。
「ここが、記録にない区画か?」
「そうよ。少なくとも構内図には載ってなかった。でも、位置的には……最深部にあたるわね」
マリアが床に貼られたラインをたどるように歩く。やがて、部屋の隅で小さな端末に目を留めた。
「これ、まだ生きてる。予備電源じゃない、これは独立電源で動いてる」
手早く接続して確認を始めるマリア。数秒後、画面に文字列が表示された。
《Kシリーズ収容データ サブブロックNo.7/実験試行No.146 最終ログ:七日前》
「Kシリーズ……やっぱりここが起点か」
神崎が呟くと、マリアの手が止まった。
「この最終ログ、送信先が本土になってる。たぶん国家のネットワークだわ。つまり、ここは——今でも監視下にある可能性が高い」
リュウジが壁際に視線を移す。
「じゃあ、さっきの扉が開いたのは、あんたが登録されてるってことか、神崎」
「そうかもな」
神崎は苦笑しながらも、その背中にうっすらと冷たい汗が伝うのを感じていた。
(誰が俺を、ここに導こうとしている……?)
その疑問が胸に引っかかったまま、神崎は奥の扉へと歩を進めた。
さらに先の扉は、明らかに構造が異なっていた。中央に何らかのロック機構があり、側面には記号とコードが記されている。
「この記号、軍事機密の極秘指定ね。通常の出入りすら許されてない領域だわ」
「マリア、ここも開けられるか?」
「わからない。これ、たぶん外部からじゃなく、内部から操作される仕組みよ」
マリアが苦い表情を浮かべながら、解析を始めたうまくいかない。
リュウジが周囲を見回し、警戒を強めながら呟いた。
「おい、神崎。また扉の前に立ってみろよ。案外開くかもしれねえぜ」
「そんなに都合よくいくかよ」
疑問に思いながらも、神崎は扉の前で立ち止まった。
ピッ――カシャ
思わず三人は顔を見合わせて、しばらく動かなかった。
自分をここへ導く者がいる——その存在を、皮膚の内側で感じる。冷たい汗が首筋を伝い、背中の下を這うような感覚が続く。だが、それでも彼は後ろを振り返ることはしなかった。
「開けるぞ」
神崎は扉の脇に手をかけた。マリアとリュウジは、すでに応戦の構えをとっていた。
軋むような音とともに、扉はゆっくりと開いた。重たい空気が内側から流れ出してくる。湿り気を帯びたその空気には、薬品のような匂いが混ざっていた。医療、あるいは実験施設特有のそれだ。
現れたのは、異様な空間だった。半地下のように下がった室内には、パネルに覆われた壁面と無数の配線。中心には冷却ポッドのような大型装置が鎮座しており、周囲には固定器具のようなベッドがいくつも並んでいた。その全てに人影はなかったが、どれも 使われた痕跡が残っていた。
「この配置、監視よりも処置目的ね」
マリアが目を細めながら言った。
「処置って、まさか……」
神崎はそこまで言いかけて、言葉を飲んだ。
装置の一つに近づくと、そこには半ば外れかけた名札が残されていた。印字は掠れて読めない。だが、神崎はその側面に記されたコードの一部に、見覚えがあった。
K-03――
「Kシリーズのこの番号、以前どこかで……」
「おそらく、ここの個体は処分済みだわ。でも、装置そのものはまだ使えるはず」
マリアが壁際の端末に接続し、短く息を飲んだ。
「内部データ、生きてる」
端末に表示されたのは、複数のK個体に関するログだった。K-01、K-02、K-03——そして、その末尾に、現在の稼働状態として“空欄”となっている枠が一つだけあった。
「ここだけIDが消去されてる」
「消されてる? どういう意味だ?」
リュウジも端末を覗き込んだ。
「記録が改ざんされてるの。データベース上では存在しない個体として処理されてる。つまり……」
マリアの視線が神崎へと向く。
「やっぱり何かが、ここで隠されてるってことか」
神崎はその言葉の重みを、静かに受け止めた。




