第43話「転送記録」
扉が、鈍い音を立てて開いた。だが、そこには何の姿もなかった。
扉の向こうから吹き込んできた空気は、想像していたよりもはるかに冷たかった。だがそれは冷房の冷たさではない。何か――長く閉ざされていたものが、いまゆっくりと息を吹き返したような、ねっとりとした気配のようだった。
神崎は入ろうとしたマリアを制止し、左右を確認しながら先に無言で一歩を踏み入れた。銃を構えた手に、わずかに汗が滲んでいる。
通路の向こうは、漆黒の静寂に包まれていた。照明の半分はすでに壊れているのか、残った光源だけがところどころ壁面を照らしている。コンクリートの床には、いくつかの足跡――それも、引きずるような痕跡が乱雑に残されていた。
「……空っぽか?」
背後からリュウジの声がした。神崎は大きく首を振る。
「いや、誰かがついさっきまでいた。間違いねえ。生き物の気配が残ってる」
マリアが携帯端末を確認しながら、小声で言った。
「ここは、転送実験棟と呼ばれていた場所のはずよ。たしか施設配置図にあった。ただ、詳細な記録は一切残っていなかったわ。誰かが意図的に削除したのかもしれない」
「転送って、まさか人体実験の一種か……?」
神崎は眉をひそめた。
「それ以上は、今はまだ推測よ。でも――」
その言葉を最後まで聞く前に、突然、左手の扉の奥から「カツン」と何か硬質なものが床を叩く音が響いた。
三人は反射的に銃を構えた。神崎は左の壁に背をつけ、銃口を音のした方向へ向けた。リュウジも無言で身をかがめ、マリアがライトを上げる。
だが、そこには何もいなかった。ただ、音だけが空間に残り、まるで見えない誰かがすぐそばで息をひそめているような錯覚を与えていた。
神崎はゆっくりと足を踏み出し、廊下の奥を覗き込む。すると、そこで何かが素早く視界を横切った――
「っ……!」
あまりに一瞬のため、懐中電灯の光では捉えきれない速さだった。ただ、間違いなく人間ではない何かがそこを通った。だが音もない。足音も、息遣いも。
「……いま、見たか?」
「ああ。……でも、影だけだ。足音がしなかった」
リュウジの額から汗が流れている。マリアは、じっと奥の闇を見つめていた。
「ここには、人間以外のものも……いたのかもしれないわ」
沈黙が落ちる。
その時、神崎の視界に何かが落ちているのが見えた。金属片のようなそれは、足元の配管の間にひっそりと挟まれていた。
拾い上げると、それは細長い、IDチップのようなタグだった。
《K-07》
神崎の手が止まる。
「……このタグはさっき見たK-06じゃねえ。別のやつがここにいたのかのかもしれねえ」
リュウジもマリアも、無言で神崎の手元を覗き込んでいた。
すると、今度は奥の壁に埋め込まれた端末が不意に小さく明滅を始めた。電源が落ちているはずの施設の中で、ただひとつだけ生きているように、カタ……カタ……と、何かを訴えるように微かに動いている。
「まさか勝手に……起動した?」
マリアがすぐに近づき、携帯端末と接続を試みた。
「これは、直前のログ……最後にK-07という番号の個体が確認された転送記録があるわ」
「転送記録って、さっきお前が言っていたやつか?」
「私も詳しくはわからない。人間の精神を転送する実験だとかなんとか。さらにここの下層の管理対象区画・深層Ⅲって場所にあるみたいね」
「管理対象区間? どこらだ。まだこの先か?」
マリアが立ち上がり、制御パネルの表示を確認した。
「この先に通気シャフトがあることになってる。非常用の昇降ルートが使えるかもしれない」
神崎がリュウジと視線を交わす。
「行くしかねぇなだろ。今ここで止まったら、何も見えねえままだ」
三人は銃を持ち直し、再び進路を確認する。
そのときだった。再び、後方の扉が「コツ……コツ……」と叩かれた。今度はリズムを持たない、誰かの手が触れているような、奇妙に粘りついたノック音。
「さっきの奴……まだ、いるのか」
神崎が振り返ったその瞬間、壁の非常灯が一つ、ゆっくりと明滅を始めた。静寂の中で、警告のような赤い光が彼らを包み始めていた。




