第37話「静寂の檻」
錆びた鉄扉の奥に広がっていたのは、かつて収容施設として使われていた統制区画の中枢だった。天井は低く、通路は曲がりくねり、空気は沈殿した埃と薬品の匂いで濁っていた。照明の一部はまだ機能しているらしく、ちらちらと明滅を繰り返している。
神崎は歩みを止め、足元のタイルに目を落とした。血のような黒い染み。何年も前のものにしては、妙に生々しい。ここで何かがあった。それも、少し前に——。
「……この先は、かつて懲罰房だった場所よ」
マリアの声に、神崎とリュウジが顔を向ける。「懲罰房」とは、このような施設で、暴れたりした囚人を、しばらくの間ほかの囚人から隔離するための部屋のことだ。
「お前……ずいぶん詳しいな」
神崎の言葉に、マリアは何も答えずに歩を進めていった。
通路の角を曲がったその先、朽ちかけた金属製の扉が並んでいる。それぞれに番号が振られ、重い南京錠が取り付けられていた。通路の奥からは、かすかな風の音が聞こえる。いや、風ではない——誰かの吐息のようにも聞こえた。
リュウジが鼻をしかめた。
「……何か、臭わねえか?」
「そうね。なにか、人間の匂いとは違う」
マリアが呟く。
そのとき、右手の分岐通路から足音が近づいてきた。三人は即座に身を潜め、影に紛れた。
私兵の斥候らしい二人組が、懐中電灯を手に進んでくるのが見えた。
神崎とリュウジは手にした銃をその斥候に向けて構えていた。だが、マリアの手が二人の顔の前で僅かに上がった。撃つな、の合図だった。
通り過ぎる私兵の背に銃口を向けながらも、誰も引き金を引かなかった。すれ違った後、長い沈黙のあとで、ようやくマリアが手を下ろす。
「……あれを撃っていたら、警報が鳴ってたわ」
その言葉に、神崎もリュウジも頷いた。
三人は再び進み出し、やがてある一室にたどり着いた。監視制御室——かつての司令官席のような台座が中央にあり、壁には通路全体の見取り図が貼られている。マーカーで塗り潰された部屋、名前の消された扉。何かを隠そうとした痕跡が、あちこちに残っていた。
「……ここで何があった?」
神崎が問いかけると、マリアはしばらく沈黙してから言った。
「わからないわ。ただ、かつてここは人体実験場だったという噂があるの。捕虜でも囚人でもない、もっと扱いやすい存在が実験に使われていたって」
「扱いやすい……?」
「記録から名前が消せる者たち。存在しなかったことにできる人間よ」
神崎は背筋に冷たいものが走るのを感じた。誰かがここで何かを始め、そして証拠ごと封じ込めようとしたのだ。
部屋の隅に、古びた棚があった。神崎が近づくと、埃をかぶった書類が積まれていた。その中の一枚に、かすれた文字が浮かび上がっていた。
《試験体D-07 安定率・未確認 要監視》
神崎はその言葉を読み上げ、しばらく沈黙した。脳裏の奥に、どこかで見たような記録と重なる感覚があった。何かが引っかかる。だが、はっきりと思い出せない。
(この記録……どこかで似たような報告を見た気がする。いつ、どこで……?)
正体のない不安が、胸の奥でじわりと広がっていく。気づけば、指先がわずかに震えていた。
「どうしたの?」
神崎の様子に異変を感じたのか、マリアが問いかけてくる。
「いや……なんでもねぇ。ちょっと思い出しそうで、思い出せないだけだ」
マリアは黙って神崎を見つめたあと、目を伏せた。
棚の下に落ちていた別の紙片には、奇妙な記録が書かれていた。
《外部干渉による能力覚醒の兆候あり。対象の隔離を検討》
そこにあったのは、人間の記録というより道具の管理表のようだった。神崎はしばらく紙片を眺めたまま、動けなかった。思考がかすかに霧をまとう。
(いったい何が動いている……? 何が、この島の中で)
そのとき、制御室の天井裏から、ごく小さな音が聞こえた。
チッ……チッ……
一定の間隔で、何かが金属を叩くような音。誰かがそこにいるのか、それとも——
神崎は振り返り、マリアとリュウジに目配せした。
「気をつけろ。……俺たちは、もう見られてる」
その瞬間、天井の隙間から細長い影が一瞬、揺れた。誰かがいる。いや、何かがいる。神崎は無意識に拳銃に手をかけていた。心臓の鼓動が、静寂の中で自分にだけ響いているように思えた。




