第36話「静かなる潜入」
夜が明けきる寸前の島に、冷たい空気が張り詰めていた。かつて炭鉱として使われていた地下通気路の入り口に、三つの影が立っている。神崎、マリア、リュウジ。三人は無言のまま装備を確認し、互いに小さく頷き合った。
「爆薬は最低限。音を出したら終わりだ」
リュウジが囁くように言う。
マリアは地図を見直しながら、進入経路を指差した。
「通気路の途中、第三シャフトの分岐を抜ければ、統制区画の裏手に出る。ただし、一部は崩落してるわ。足場に注意して」
神崎は頷きながら、ふと呟いた。
「……犬どもは、どう動くと思う?」
リュウジは短く息を吐き、肩をすくめた。「連絡は取れてねぇ。けど、コウタが死んで頭が飛んだ連中だ。何をしでかすか分からねぇ。うまく転がれば、奴らも火種になる」
「裏切り者が出たって話もあったな」
「ああ、でも全員がそうってわけでもねぇ。まだ、くすぶってるやつがいる。そいつらが目を覚ませば……面白ぇことになる」
神崎たちはまだ生きている。それだけが、確かだった。
「なあ……生き延びたら、まず何がしたい?」
リュウジがふと口を開いた。
「飯だな。うまいもんを腹いっぱい食う。できれば、誰にも追われずにな」
神崎は笑いながら答えた。
「じゃあ約束だ。生きて出たら、肉でも酒でも、全部俺が出す」
マリアは何も言わなかったが、小さく目を伏せて、ほんの少し口元を緩めた。
三人は一列になって、ひんやりとした通気路の闇の中へと静かに消えていく。
***
その頃、島の東寄りにある廃倉庫。かつて犬どもが根城としていたその一角に、ぼろぼろの上着を羽織った数人の男たちが身を潜めていた。犬どもの残党だった。
火を放ったのは昨夜のことだった。奴らの補給庫と倉庫を襲撃し、何人かは仕留めた。だが——逃げ切れなかった仲間もいた。復讐の衝動と後悔が入り混じる中、彼らは身を潜めながら時を待っていた。
「くそったれが……このまま黙ってると思うかよ」
その中のひとりが、古びた包帯を巻いた腕で銃を掴みながら言った。
「……あの人が動けば、また変わる。今は……その時を待つだけだ」
彼らの眼に宿る光は、もはや暴力ではなく、決意の色だった。
***
通気路の中は、まるで忘れ去られた墓のようだった。コンクリートの壁には、かすれた赤い塗料で記された識別番号や矢印が所々に残されている。その多くは上塗りで塗り潰され、下に何が書かれていたのかは判別できない。
途中、少し開けた排気区画で一時停止し、神崎たちは息を整えた。重たい沈黙の中で、ふとマリアが視線を上げた。
「……この道の先に藤堂の私兵がいるの」
その言葉に、神崎とリュウジが揃って顔を上げた。
「ここにも来たことがあるのか?」
神崎が訊くと、マリアは少しだけ間を置いて頷いた。
「ずっと前。あの人を探していた時……」
その目には、淡い追憶の色が宿っていた。冗談ではなく、本当に過去を遠くに置いた人間の目だ。
「……そいつは、見つかったのか?」
「いいえ。たどり着いた時には、もういなかった。でも、今なら少しは分かるかもしれない。何が起きたのか」
その言葉の奥にある意味を探るには、神崎はまだ知識が足りなかった。ただ、何かが確かにこの島に根を張っていることだけは分かった。
やがて、遠くに薄明かりが見えた。マリアが立ち止まり、手をかざす。
「あそこが監視ポイントよ。そこに私兵が巡回してるはず」
リュウジが壁に身を寄せて、そっと先を覗いて様子を伺い、神崎とマリアは腰を低くして待つ。案の定私兵の姿があった。
やがて、私兵と思われる足音が通り過ぎた瞬間、リュウジが黙って右手を回した。
三人は影のように滑り出し、明かりの届かない角を抜けて裏手へと回り込んだ。気づかれなかった。
通気路の最奥に、錆びた金属扉があった。神崎がそっと手をかけ、開錠工具を差し込む。数秒の沈黙。すると、カチ、と小さな音がして扉が開いた。
三人は慎重に進み、狭い裏路地のような通路に出た。通路の奥には監視塔の影が揺れている。遠く、銃声が断続的に響いていた。司の一団か、それとも犬どもか——判断はつかない。
空気が妙に澱んでいる。鉄と油、古い薬品の匂いが混ざり、鼻の奥に残った。
「急ぐぞ。奴らの注意が逸れてるうちに、目的地に近づく」
神崎が低く言うと、なぜかマリアが振り返った。
「……この気配、なんかいやな感じ」
リュウジが肩越しに尋ねる。
「どういう意味だ?」
「藤堂の兵だけじゃない。……何か、別のものが動いてる」
「別のもの? 何がいるんだ?」
「わからないわ。でも、いやな気配を感じるの。気をつけて」
神崎とリュウジは顔を見合わせて頷いた。
「とにかく、進もう」
三人の足音が再び闇に消えたそのとき、統制区画の上層で、ひとつのドアが静かに開く音がした。




