第30話「業火」
夜の帳が落ちた島の片隅で、小さな火が灯った。パチ、と音を立てて、油を含んだ布切れが炎を上げる。やがて、それは廃棄された木箱に燃え移り、一気に燃え広がっていく。資材置き場に火が放たれたのだ。
「合図は……出たな」
裏道に潜んでいたリュウジからもはっきりと確認できた。暗がりの中、身を縮めながら燃え上がる倉庫を遠目に確認する。犬どもの残党が決めた通り、最初の火種がともされたのだ。
(このまま一気にやる気か……)
物陰から観察していたリュウジの目には、続々と現れる影の一群が映っていた。短銃や鉄パイプを手にした者たち——コウタの残党、犬どもの生き残りたちだった。
「突っ込めェッ!」
誰かが叫び、火の海を背に男たちが突進していく。目指すのは、補給路に沿って建てられた監視小屋。その奥には、物資の中継所があり、藤堂の勢力が管理していた。
リュウジはその動きを見届けると、小さく口元を吊り上げて動き出した。
「……さあて。こっちもボチボチ始めるか」
***
一方その頃、神崎は島の反対側——かつて監視塔があった高台のふもとにいた。ひと気のない斜面を慎重に進み、地図で記された古い小屋の裏に腰を下ろす。今夜、藤堂が動くならここだと踏んでいた。資材置き場の混乱に乗じて、必ず何らかの動きがある。
(来い……どうせお前も、もう引き返せねぇはずだ)
神崎はポケットの奥にある拳銃をそっと握り直した。
しばらくして、闇の中から複数の足音が近づいてくる。聞き慣れない足取り。軍靴のような重みを含んだ音だった。
(来たな……)
神崎は身を伏せ、小屋の陰から様子を伺う。現れたのは四、五人の男たち。いずれも私兵のような黒ずくめの装備に身を包み、顔を隠していた。無線機を使って、短く言葉を交わしている。
「……火災確認。現在、補給拠点北側が延焼中」 「応戦部隊は?」 「B班を出した。敵は十人以上。武装あり」
神崎はその会話を聞きながら、拳銃の安全装置を外した。
(やはり、奴らは把握してる……だが、思ったよりも冷静だ)
藤堂自身は現れない。だが、この私兵たちの動きが奴の神経をそのまま示している。
(焦ってはいない。つまり、まだ切り札を出していないってことか)
神崎は小屋の陰から身を乗り出した。一人の男の背中が完全にこちらを向いた瞬間、引き金にかけた指にわずかに力がこもる。
だが、その時だった。
「おい、待て」
別の男が低く叫ぶ。
「この位置、誰かに見張られてる気がする」
神崎は即座に身を引いた。
(……気づかれたか)
その場での発砲は危険すぎた。神崎は物音を立てず、裏の斜面を迂回するルートへと移動した。
(今じゃない。奴らのもっと奥に踏み込めるまで、引き金は引けねぇ)
息を殺しながら、小屋の裏手から坂道を降りる。背後で、私兵たちが周囲を警戒し始めた気配が伝わってくる。
(あいつが……藤堂が出てくるまで、まだ時間がある)
神崎は唇を噛み、懐から写真を取り出した。闇の中で白く浮かぶ、あの微笑み。
(マリア……お前も、この夜を見てるのか)
***
その頃、島の空は赤黒い炎と煙に染まっていた。補給路周辺では犬どもと私兵の部隊が衝突を始めていた。最初に火をつけた斥候はすでに銃撃で倒れ、資材置き場の一部は完全に崩壊している。
「撃てッ! 囲めッ! 逃がすな!」
私兵たちの怒号が響く中、犬どもは手製の火炎瓶と短銃で応戦していた。瓦礫の陰から、リュウジが顔を出す。
「チッ……思ったより本格的に来やがったな」
銃声が飛び交う中、彼は地面に伏せたまま懐から無線機を取り出す。
「……神崎。聞こえるか。こっちは始まった。早めに動け。じゃねぇと、こっちが潰れる」
無線に雑音が混じる。
——ガ……聞こえてる。無理はするな。タイミングは、俺が決める。
それだけの言葉に、リュウジは小さく笑った。
「……まったく、相変わらずだな」
***
夜の島が、ついに戦場になった。補給路の混乱。監視塔周辺の私兵の動き。そして、神崎が目を光らせるその先——
そのすべてが、ある一点に向かって収束していく。
神崎は地面に身を伏せたまま、じっと遠くを見据えていた。
(来いよ、藤堂。お前と決着をつける時が、ようやく来る)
その目には、炎の揺らぎすらも映らぬほどの静けさと、覚悟が宿っていた。




