第三章「座標の彼方」第28話「血の匂い」
重い空気がアジトを支配していた。窓の外では、低く垂れ込めた雲が空を覆い、まるでこの島そのものが嵐の訪れを待っているかのようだった。
広げられた地図の上に、神崎の指が静かに落ちる。
「……ここの犬どもの残党、どうなった?」
低く問いかける神崎に、司は煙草をくわえたままわずかに目を細めた。
「ああ、やつら、もう動き始めてるって聞いたぜ。《《あの男》》にも接触したって話だ」
「さすがだな。火の回りがえれえ早ぇな」
リュウジが呆れたように笑う。
「島の噂なんざ、放っときゃすぐに広がる」
司がフンと鼻を鳴らし、手をひらひらと振った。
神崎は黙って頷いた。仕掛けた火は確実に燃え広がっている。だが、それは同時に、二度ともう引き返せないことをも意味していた。
「あとの問題は……藤堂が、いつ、どう出るか、だな」
「なあに、藤堂なんていつまでも放っとくようなタマじゃねぇさ」司が吐き捨てるように言った。「向こうが仕掛けてくるのは時間の問題だろう」
神崎はポケットに忍ばせたマリアの写真を一瞬だけ思い浮かべた。——確かめなければならないことが、あまりにも多すぎる。
「だが、こっちから動くには、まだ情報が圧倒的に足りねぇ」
神崎が言うと、リュウジが立ち上がった。
「なら、俺が動くさ。あんたらが動くよりは少しは目立たねえだろ。犬どもがどこまで本気か、裏から探ってくるさ」
「ひとりじゃ危険だぞ」
神崎は止めた。
「今さらだろ。こういう時に動かなきゃ、調達屋なんざ名乗れねぇ」
リュウジは肩をすくめると、煙草を口に咥えたまま早々に2人に背を向けて、アジトを出ていった。
島の裏手、廃倉庫の一角。リュウジは錆びた鉄骨の影から、中の様子を窺っていた。
かつて物資の中継所だった場所は、今は誰も近づく者はいない——はずだった。
だが、やはり数人の男たちがいるのが目に入った。犬どもの残党らしき面々が、車座になって密談している。
「……もう待てねぇ」
「そうだぜ。どうせ藤堂に殺されるなら、こっちから仕掛けるしかねぇだろ」
そんな殺気だった会話が漏れ聞こえる。
リュウジは薄く笑った。
(……こいつら思ったより、腹を括ってやがる)
その時——背後に微かな気配。リュウジは即座に身を伏せた。視界の隅に、見覚えのある顔が映った。
(確か藤堂んとこの奴か……)
その男は周囲を探るように物陰に隠れながら、犬どもの動きに探りを入れているのは明らかだった。
(……やはり、もうバレてやがる。奴らもすでに嗅ぎつけてるってことか)
リュウジは低く舌打ちすると、身を伏せながらその場を後にした。
その頃、アジトでは神崎が黙り込んで地図を睨んでいた。犬どもの残党が動き始めた今——次は、藤堂の出番だ。
「なぁ、司」
神崎の声に司が顔を上げた。
「もし……あのK-07の記録が本当ならさ。俺たちは、もう人間じゃねぇのかもしれねぇな」
司は指に挟んだ煙草の灰を足下に落とし、苦笑した。
「人間かどうかなんざ、どうでもいいさ。どうせ、ここにいる奴らは、とっくにそんなもん捨ててる」
神崎は視線を落とした。
「マリア……あいつは、どこまで知ってやがるんだろうな」
あの写真の中で、白い修道服のまま微笑んでいた女。——間違いなく、マリアだった。
「それも本人に会えたら、直に確かめるしかねぇだろうよ」
司の声には、迷いなどひとかけらもなかった。
夕方。リュウジが戻ってきた時、空はすでに赤く染まりかけていた。その顔には、焦りと諦めが入り混じった色が滲んでいた。
リュウジは肩で息をしながら、神崎の隣に腰を下ろした。
「……ヤバいぞ、神崎」
「どうした」
「犬どもはもう暴発寸前だ。今夜にも動くかもしれねぇ」
リュウジは煙草に火を点けると、低く息を吐いた。
「それだけじゃねぇ。犬どものアジトで、藤堂んとこの奴の姿を見かけた。犬どもの動きなんざ掴んでる。なら、奴らはもうこのアジトも嗅ぎつけてると思った方がいい。どうせ時間の問題だ」
神崎は静かに立ち上がった。
「なら……こっちも覚悟を決めるしかねぇな」
リュウジは煙を吐きながら、ふっと笑った。
「お前、こういう時だけは腹が座るよな」
「最初から、この島でのうのうと生きる気なんざなかったさ」
重苦しい沈黙が落ちる。それでも、誰も目を逸らさなかった。この瞬間から、すべてが動き出す——誰の目にも、それは明らかだった。
神崎はゆっくりと視線を上げた。
「いいか。どうせ、もう引き返せねぇとこまで来てるんだ。全部、終わらせるために動くぞ」
リュウジと司が、無言で頷いた。




