第二章「監獄の亡霊」第21話「再会」
夜の帳が降りる頃、神崎は廃工場の外に出た。冷たい風が頬を撫でる。ここ数日、島の空気はさらに重く淀んでいる気がした。
あの時、マリアの声が聞こえなければ、俺はナイフであの男を切り裂いていただろう。司はマリアの声など聞いていないらしい。あれは俺の幻覚だったのか——
その時、ふと背後から人の気配を感じた。神経を尖らせ、振り向く。
「——驚かせてしまいましたか?」
闇の中から、白い姿が浮かび上がった。
「マリア……」
神崎は、息を呑んだ。今度こそは確かにそこにいる。幻などではない。
「どうして、ここに?」
「言ったでしょう。あなたを助けに来たと」
淡い微笑みを浮かべるマリア。その姿は、確かに現実に存在しているはずなのに、どこか幻想的だった。
「お前は……何者だ? 本当に、この島の人間じゃないのか」
「ええ。私はこの島の者ではありません」
「なら、どうやって——」
「理由を話すには、まだ時が早いかもしれません。でも、あなたが危うい選択をしようとしているのは分かる」
マリアの目が静かに神崎を見据える。
「さっきの地下通路でのこと。……司は、おそらく正しい判断をした。でも、あなたが躊躇したのもまた、間違いではない」
「どっちだって言うんだよ……」
神崎は、苛立ちを隠さず吐き捨てた。
「私は、あなたの人間らしさが好きだと言いたいだけ。私が——かつて助けたかった人にも、そういうところがあった」
神崎はその言葉に反応する。
「……誰だ、それは」
マリアはわずかに微笑む。
「もういない。……けれど、だからこそ、あなたを助けたいと思ったの」
神崎はしばらく黙った。
「助けるって、何をだ?」
「あなたが戻れない場所へと踏み込むのを、止めたいの」
「もう遅いんじゃないのか? あの通路で、俺はもう……」
「いいえ。まだ戻れる。だから、今夜はそれだけ伝えに来たの」
マリアはゆっくりと後ずさる。
「待てよ。お前の正体を教えろ。……なぜ、俺のことを知っている」
マリアは静かに首を振った。
「……いずれ話します。でも今は、その時ではない」
「なあ、マリア。お前は……ずっと見ていたのか? 俺たちのことを」
「ええ。最初から。あなたがこの島に送られてきたその時から——ずっと」
「……どうやって、こんな島で?」
マリアは一瞬だけ目を伏せた。
「この島には、誰にも知られない場所がある。陸地からは見えない入り江の奥——そこで私は生きている」
「なぜ、そんなことを……」
「この島には、かつて私にとって大切な人がいた。……でも、もういない。だから私は、ただ彷徨っているだけ」
「……その大切な人ってのは、どうなったんだ?」
「藤堂の秩序に、殺されたの」
マリアの声はかすかに震えていた。
「だから、私はここにいる。あなたが、同じ道を歩まないように——」
神崎は拳を握りしめた。
「俺は、何を選べばいい……」
マリアはそっと手を伸ばし、神崎の頬に触れた。
「あなたが望むなら、私は力を貸す。でも、決めるのはあなた」
その言葉を最後に、マリアは闇に紛れるように姿を消した。
神崎は拳を強く握ったまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。
夜が更け、神崎は一人、廃工場へ戻った。だが、胸の奥に渦巻く不安は消えない。
工場の一角に、司の姿を見つけた。
「……神崎か。どうした、そんな顔をして」
司の声はいつも通り静かだが、どこか気遣うような響きがあった。
「……いや。ちょっと考えごとをしていただけだ」
神崎は曖昧に答える。
司は煙草に火を点けると、ふぅ、と煙を吐き出した。
「お前に話しておきたいことがある」
「なんだ?」
「レムナントの中でもな、いよいよ不満が噴き出し始めてる。あの裏切り者の一件もそうだが……何か、大きなうねりが来る気がしてる」
「何が起きる?」
「分からん。だが、次に動くのは藤堂じゃない。レムナントの中から、何かが起きる。そんな気がしてならない」
神崎は黙って司の顔を見つめた。
「司、お前は……本当に、レムナントをまとめられると思っているのか?」
「正直、分からんさ。だがな、今はここしか俺の居場所はない」
神崎はゆっくりと頷いた。
「……分かった。俺も、もう少しだけ、ここに残る」
司はわずかに笑った。
「そうか。なら、お前には任せたい仕事がある」
「……仕事?」
「ああ。明日、ある場所を見てきてほしい。そこに、今後の鍵があるかもしれん」
「いいぜ。乗りかかった船だ。で、どこへ行けばいい?」
「それは明日話す」
いいな、という表情で司が見つめた。司がそう言うなら、何か理由があるんだろう。
「わかった」
神崎は短く返事をした。
夜は、なおも深く、重く——島を覆っていた。




