第二章「監獄の亡霊」第20話「孤島の夜明け」
夜が明けた。だが、神崎の心は晴れなかった。廃工場の片隅、冷え切った鉄骨にもたれかかりながら、神崎はぼんやりと夜明けの空を見上げていた。重い空気が、肌にまとわりつくようだった。
昨日のことが、頭から離れない。裏切り者。司のナイフ。震える男の姿。そして ——マリアの声。
あの瞬間、自分は確かに殺そうとした。だが、マリアの声がそれを止めた。
『神崎さん……』
あの囁きは何だったのか。なぜ、あの時だけ聞こえたのか。
——まだ、何かが隠されている。
その感覚だけが、神崎の胸に残っていた。
「……朝から浮かない顔だな」
低い声に振り向くと、司が入口に立っていた。昨日のことがあっても、いつも通りの顔だった。
「お前こそ、あの状況でよく眠れたな」
「……ああ。俺には、迷う余地なんてない」
そう言った司の目は、どこか遠くを見ているようだった。
「今日はどうするんだ?」
「決まってるさ。次の手を打つ」
「内通者は?」
「お前が預かった男は、今は生かしている。それでいい。だが、動き出さなきゃ、またこっちが泳がされるだけだ」
神崎はゆっくりと頷いた。
「確かにな。なら、どう動く?」
司は顎で部屋の奥を指した。
「話す前に、見せたいものがある。……ついて来い」
二人は廃工場の奥へと進んだ。司が開けた部屋には、ボロボロになった木箱や紙束が無造作に積み上げられていた。埃と錆の匂いが鼻を刺す。
「これは?」
「……この島に関する昔の記録だ。俺が藤堂の影として動いていた頃、密かに集めたものだ」
司は一冊の古びた帳面を手に取った。
「ここに、藤堂の計画が一部残ってる。完全じゃないがな」
神崎は帳面を覗き込む。そこには、びっしりと文字が書き込まれ、何かの図も描かれていた。
「これは……?」
「次の島の計画だ」
「次?」
「藤堂は、この島をただの終着点にする気はない。ここを“モデルケース”にして、新しい支配の形を作ろうとしている」
神崎は息を呑んだ。
「つまり、ここでの支配が完成したら、次があるってことか……」
「ああ。だから焦ってる。ここで失敗すれば、全部が崩れる。……それが、あいつの恐怖の正体だ」
神崎はゆっくりと頷いた。昨日、処刑場で感じた違和感が腑に落ちる。
「だから、お前は……」
「藤堂を止める。どんな手を使ってでもな」
司の目に、決意が宿っていた。だが、神崎はまだ迷っていた。
「……俺は、そこまでの覚悟があるのか、わからない」
「だから、見せると言ったろ」
司はそう言うと、神崎の肩を叩いた。
「もう一つ。今夜、藤堂の監視区域に潜る。……お前にも来てもらう」
「監視区域? そんな場所に……」
「リスクはある。だが、そこに藤堂の本当の狙いが隠れてる。……そう思ってる」
神崎はしばらく考えた後、ゆっくりと頷いた。
「わかった。行こう」
「その前に——」
司はポケットからナイフを取り出した。
「昨日のナイフだ。持っていけ」
「俺は——」
「いいんだ。これは覚悟の印だ。持ってるだけでいい」
神崎は躊躇いながらも、ナイフを受け取った。その重みが、やけに現実的だった。
その日の夜。司と神崎の二人は居住区の廃工場を抜け、島の北部へと向かった。
藤堂の「監視区域」。そこは、かつて島の中でも最も厳重に管理されていた区域だという。そして今は誰も近づかない禁忌の地。冷たい風が吹きすさび、月光すら届かない闇が広がる。
「ここが……?」
神崎はあたりを見渡した。
「ああ。ここには、誰にも知られていない、あるものが眠っている」
「あるもの?」
「見ればわかる」
二人は瓦礫を越え、崩れたフェンスをくぐった。やがて、巨大なコンクリートの塊が見えてきた。まるで防空壕のような地下施設の入り口。
「ここだ」
司がいったん立ち止まった。
「地下、ということか……」
「ああそうだ。ここはな、記録庫だ。藤堂が外には絶対に出さなかった情報——それが眠ってる」
神崎は息を呑んだ。
「いったい何があるんだ?」
「俺にも、まだ全部はわからない。だが……そこに全てがある気がする。藤堂の秘密、そして——」
「……俺たちの未来か」
司は小さく笑った。
「さあ、行こう」
二人は、闇の中へと足を踏み入れた。冷たい空気が、全身を包み込む。
神崎は、静かに心の中で問いかけた。
——マリア。お前なら、どうする?
答えはない。ただ、足元の闇が、深く深く続いているだけだった。




