第二章「監獄の亡霊」第19話「揺れる心」
湿った空気が地下通路に重く垂れ込めていた。
神崎はじっと目の前の男を睨んだ。震える肩、汗まみれの顔、何かを必死に訴えようとする血走った目。
——処分する。
司の低い声。
「こいつを逃がせば、次はお前も俺たちも終わりだ」
神崎は唇を噛みしめた。この島の現実——裏切り者に情けはない。
「……そうだな」
やるしかないか。神崎にそんな考えが頭をよぎったその瞬間だった。
——神崎さん
耳元で誰かが囁いた気がした。思わず辺りを振り返ったが、そこには誰もいない。
だが、あれはマリアだ。間違いない。確かに、あの声だった。
「どうした?」
司の声が神崎を現実に引き戻した。神崎はゆっくりと司を見た。
「お前、本気でこいつを殺すつもりか?」
「……当然だ」
即答をする司の答えはあまりにも冷徹だった。
「簡単に決めていいのか? こいつはもしかしたら……ただの駒かもしれない」
神崎の言葉に、司の眉が僅かに動いた。
「駒?」
「ああ。こいつが藤堂の手の者であることは間違いないだろう。だが、もしこいつが単なる使い捨てだったとしたら? ここでこいつを殺せば、藤堂の思惑通りになるというこどじゃないか」
司は神崎の目を見据えたまま、ゆっくりと男に視線を落とした。
「おい、お前は何を知っている?」
司の低く、冷たい声に男は震えながら、かすれた声を絞り出した。
「お、俺は……ただ、命令された通りに報告していただけなんだ……!」
「誰に?」
「わ、わからない…… でも、確かに指示はあった……」
「藤堂か?」
男は首を振る。
「違う…… 藤堂じゃない…… でも……」
司の顔が険しくなる。
「どういうことだ?」
男はあきらかに恐怖に支配されたまま、もつれる舌で言葉を続ける。
「確かに、藤堂に報告しろとは言われた…… でも、その指示を出したのは、別の誰かだ……! 俺は、そいつに会ったことすらないんだ!」
「……するとお前は顔も知らない奴の命令を聞いたってことか?」
男が激しく首を縦に振った。
「報酬があったんだ…… 俺の独房にいつの間にか食糧が置かれてた…… 小さなメモと一緒に……」
「メモには何て書かれていた?」
男は息を詰まらせた。
「こ、この情報を藤堂に伝えろと。メモにはそう書いてあったんだ……」
司と神崎は目を見合わせた。
「……藤堂に言われたわけじゃない?」
「もしそうなら、目的は何だ? それは誰だ?」
静寂が二人の間に落ちる。
神崎は考えた。レムナントを裏切って、藤堂に情報を流す者——それは、単なるスパイではなく、もっと別の意図があるのではないか?
男は、ただ震えている。
「俺は……ただ、生きたかっただけなんだ……」
神崎は男を見下ろしたまま、司に問いかけた。
「どうする?」
「……処分する」
司は短く答え、懐からナイフを取り出した。
「待て、司」
神崎が低く言うと、司の手が止まる。
「何だ?」
「俺にやらせろ」
司が少しだけ目を細めた。
「……いいだろう」
そう言うと、ナイフを神崎に手渡した。男は涙を浮かべながら首を振る。
「待ってくれ! 俺は……! 俺はただ……!」
神崎は無言でナイフを握りしめ、男の首筋に刃を押し当てる。
だが——。
——神崎さん
また、マリアの声が耳元に響いた。
神崎は静かに息を吐いた。
ナイフの刃が、ゆっくりと男の首から離れる。
「……生かしておく」
「何?」
司が低く問うた。
「こいつは、俺が預かる。何か裏があるなら、利用するまでのことだ」
司はしばらく神崎を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「……好きにしろ」
神崎はしばらく沈黙した後、手の中のナイフを見つめ——ゆっくりと司へと近づき、ナイフを差し出した。
「……預かってくれ。まだ俺には、この重さが馴染まない」
司は無言でナイフを受け取ると、ポケットに収めた。
「だが、もしこいつがまた裏切ったら——その時はお前が始末しろ」
「……わかってる」
神崎はそう言うと、男の髪をつかんで顔をグッと持ち上げた。
「お前の命は、いったん俺が預かる。二度と裏切らないと俺たちの前で誓えるか」
男が髪をつかまれたまま激しく首を縦に振る。神崎が男の髪をつかんだその手を離すと、男はその場に崩れ落ち、肩で荒い息をついた。
それから神崎はゆっくりと背後を振り返ったが、もちろんそこには誰もいなかった。
——マリア、お前は誰だ。何が言いたいんだ。




