第二章「監獄の亡霊」第17話「生と死の帳簿」
朝靄が島を覆っていた。廃工場の窓から差し込む光は弱々しく、どこかこの場所の空気そのものが重く沈んでいるようだった。
神崎は目を覚まし、じっと天井を見つめていた。昨日、処刑場で見た光景、そして——
『藤堂は恐れている。あれこそが、その証だ』
司の言葉が頭の中にこびりついて離れない。だが、あれは本当に司の言葉だっただろうか。最初に「恐れている」と口にしたのは、確か——
「……俺だったな」
神崎は呟いた。そうだ。あの瞬間、あの地獄のような処刑場を見たとき、誰より先に「藤堂は恐れている」と思ったのは、自分だった。けれど、それが何を意味するのか、まだ分からない。
ふと、扉の向こうで小さな物音がした。身構えた神崎の前に現れたのは、司だった。
「起きたか。行くぞ」
「どこへだ?」
「昨日言ったろ。見せるものがある」
神崎は無言で頷いた。昨日から続く胸のざわつきは収まらない。だが、行かなければならない気がした。
二人は廃工場を出た。朝の冷たい風が頬を刺す。空はどんよりと曇り、何かが押し寄せてくる前触れのような重苦しさを纏っていた。
「北の外れに旧管理区画がある。藤堂がかつて支配のために使った場所だ」
司の声は低い。神崎は黙ってその背中についていった。歩きながら、神崎はふと思い出したように口を開いた。
「お前さ……レムナントの連中には、本当に信頼されてんのか?」
司はわずかに笑った。
「あいつらは俺を信じちゃいねぇよ。もともと藤堂の影だった男だからな」
「なのに、なぜお前が率いてる?」
「簡単な理由さ。俺が一番、この島の地獄を知ってるからだ。生き残る道も、死に方もな」
神崎はそれ以上、何も言わなかった。
やがて二人は朽ち果てた金網の前に立った。向こう側には、崩れた建物がいくつも並び、時間が止まったような空間が広がっている。
「ここが旧管理区画だ。島が矯正施設だった頃の名残だよ」
司は金網をくぐり抜けると、迷わず一つの建物に向かった。神崎も続く。
内部は想像以上に荒れていた。天井は抜け、床は埃まみれ。それでも、壁に残る鉄格子や手錠の鎖が、ここがただの廃墟ではないことを物語っていた。
「何があるんだ?」
「見ろ」
司が開いた一室には、古びた机と椅子。そして、壁一面に貼り付けられた無数のメモや記録——。
「これは……?」
「藤堂の選別の部屋だよ。誰を生かし、誰を殺すか——全て、ここで決められた」
神崎は壁に近づき、埃を払いながら一枚の紙をめくった。そこには、びっしりと名前と番号、そして“処分済”の赤い文字。
「……ふざけやがって」
「これが、藤堂の本性だ。最初から、囚人も兵も駒でしかなかった。奴の言う秩序なんて、建前だよ」
神崎の拳が震える。
「なぜ、これを俺に?」
「知っておけ。俺たちレムナントは、次にこの帳簿に載る番だ。藤堂は既に俺たちを把握している。今は泳がせているだけだ」
「泳がせている……」
「いつでも潰せると、そう思ってるんだ。昨日の処刑場は、俺たちへの警告だ」
神崎の背筋に冷たいものが走った。あれは見せしめではなく、レムナントへの無言の宣戦布告だったのか。
「司……お前はどうするつもりだ?」
「倒すしかねぇだろ」
「本当に倒せるのか?」
「分からねぇ。だが、やらなきゃ、俺たちは全員ここで終わる」
司の声は静かだが、その奥には確かな覚悟があった。
神崎は壁の帳簿を見つめる。今にも自分の名前が書き加えられそうな気がして、思わず目を逸らした。
「お前はどうする、神崎?」司が静かに問う。「ここに残るか。藤堂に戻るか。あるいは——逃げるか」
神崎の脳裏に、マリアの声が蘇った。
『あなたは、ここにいてはいけません』
その意味が、少しだけ分かった気がした。レムナントにいる限り、自分もまた、この帳簿に名前を書かれる運命だ。
だが——。
「俺は……まだ決められねぇよ」
「それでいい。だが、覚えておけ。もう時間はない」
司はそう言い残すと、壁の帳簿を見上げた。
「生と死の帳簿——今のこの島を象徴するものさ。全ての命が、あいつの都合一つで決まる」
神崎は、ぐっと唇を噛んだ。
「だからこそ……俺は知りたいんだ。この島の本当の真実を」
司はわずかに笑い、頷いた。
「その覚悟があるなら、まだ先を見せてやる」
二人の間に、重い沈黙が落ちた。 冷たい空気が、まるでこの島の“死”そのもののように、二人を包み込んでいた。