第二章「地獄の亡霊」第16話「真実の影」
廃工場の朝は、ひどく冷えていた。
鉄骨の軋む音が耳につく。神崎はぼんやりと天井を見上げたまま、夜明けの薄光を感じていた。
昨夜の光景が、頭の奥でまだ渦を巻いている。
——処刑場。
レムナントの影、あの男は、神崎をそこへ連れていった。そこには、想像を超える地獄があった。
藤堂の秩序の裏に隠された、冷酷な処刑の場。ただの見せしめなどではない。あれは、藤堂の恐怖そのものだった。
「お前はどう思った?」
低い声に、神崎はハッとする。顔を上げると、あの男——影が、目の前に立っていた。
「……あれが、藤堂の秩序の正体か」
「ああ。あれが、藤堂の支配の本質だ。恐怖による統治だ」
影はゆっくりと腰を下ろし、神崎と視線を合わせた。
「だが……あれを見たとき、妙な感覚があった」
「妙な感覚?」
「前から思っていたんだが、藤堂は……あれほどの力を持ちながら、何かを恐れているんじゃないか?」
影の口元が微かにほころんだ。
「——気づいたか」
神崎は黙って影の目を見返す。
「そうさ。あの処刑場こそが、藤堂の恐怖の裏返しだ。自分でも気づかぬうちに、追い詰められている証拠だ」
「追い詰められている……?」
影はゆっくりと頷く。
「だからこそ、お前に伝えなければならない。……そして、名乗るべき時が来たようだな」
影の声がわずかに低くなる。
「俺の名前は——司だ」
神崎の眉がわずかに動いた。
「司……?」
「ああ。これまで“影”と名乗ったのは、俺の役割のせいだ。この島で“影”と呼ばれる立場にいたからな」
「……つまり、お前も元は藤堂の側にいたってことか」
「そうだ。俺はかつて、藤堂の“影”として動いていた。表には決して出ない、汚れ役だ。だがな……ある時、気づいたんだ」
「何にだ?」
「——この島の秩序そのものが、間違っていると」
司は遠くを見るような目をした。
「藤堂の支配は、確かに一つの秩序だ。だが、それは恐怖でしか保てない不安定なものだ。俺は、あんなもののために動いていたのかと思うと……吐き気がした」
「だから、お前はレムナントを……」
「ああ。ここにいる連中は、みな藤堂の恐怖による支配に耐えきれなくなった者たちだ。元は藤堂の兵だった者もいる。反乱を起こしかけて逃げた者もいる」
「……そして今、お前は藤堂を倒すつもりでいるのか」
司はしばらく黙った後、ゆっくりと口を開いた。
「正直なところ、倒せるかどうかは分からない。だが……あのまま見過ごすわけにはいかない。それが俺の答えだ」
神崎は目を閉じた。司の言葉は真っ直ぐだった。だが、それだけに迷いを生む。
「お前は、どうする?」
司が問う。
「ここに残るか? それとも、このまま藤堂の支配に戻るか。それとも——」
「逃げるか、か」
「ああ。俺は、どれを選んでもいいと思っている。だが……」
「だが?」
「もし、お前がここに残るなら……もう逃げ場はなくなるぞ」
静かな声だった。だが、その重さは痛いほどに伝わった。
神崎は少し考え、ぽつりと呟いた。
「……レムナントに加わるわけじゃない。だが、今はまだ、お前たちのことを知りたい」
「……ふっ、まぁいい。俺もいきなり仲間になれなんて言う気はない」
司は微かに笑い、立ち上がった。
「今日、お前に見せるものがある」
「まだ、何かあるのか」
「ああ。今度は、お前が自分の目で確かめる番だ。ついて来い」
神崎は頷き、司の背に続いた。
工場を出ると、冷たい風が吹き抜ける。空には分厚い雲が垂れ込め、今にも雨が降り出しそうだった。
歩きながら、神崎はふと司に問うた。
「なあ、司」
「なんだ」
「お前はなぜ、さっきいきなり俺に司と名乗った?」
司は少しだけ笑った。
「簡単なことだ。お前にだけは、影ではなく人間として見てほしかった。それだけだ」
その言葉に、神崎は少しだけ目を細めた。
「——そうか」
二人は無言のまま歩き続ける。冷たい風が、鉄の匂いを運んできた。
この先に、どんな真実が待っているのか——神崎にはまだ分からなかった。
——あなたはここにいてはいけません
あの夜、マリアが言ったあの言葉が、神崎の頭の中でリフレインしていた。その言葉の意味は、司といることか、離れることか。
そして司とマリアは果たして敵か味方か——
少し前を歩く司の背中を見ながら、神崎はそんなことを思っていた。