第二章「監獄の亡霊」第14話「警戒」
微かな波の音が耳に届き、神崎はゆっくりと目を覚ました。視界に映るのは、鉄骨がむき出しになった天井。荒れ果てた工場の一室。
まだ朝の冷気が残る中、神崎はゆっくりと上半身を起こした。
昨夜の出来事が、断片的に脳裏をよぎる。影と名乗る男。そして、レムナントという組織。彼らの言葉はまだ信じきれないが、確かに藤堂の支配とは異なる”秩序”を持っているように見えた。
そして——
霧のように漂う白い修道服の女、マリア。
「——貴方は、ここにいてはならない」
夢の中で響いた、マリアの声。
神崎はゆっくりと荒れた床を見つめた。
「ここ」とは、どこを指していたのか? レムナントに身を置くことを拒む警告なのか。それとも、この島そのものを出ろという意味なのか——。考えれば考えるほど、その言葉の真意がわからなくなる。
「……くそっ」
小さく舌打ちしながら、神崎は頭を振った。考えても答えが出るわけではない。昨夜は何度も目が覚めた。夢の中でマリアが語りかけるたび、何かを思い出しそうになった。だが、それは霧のように薄れ、掴もうとするたびに指の隙間から消えていった。
レムナントが言う「本当の秩序」とは何なのか。
藤堂の支配の裏にあるものとは。
そして、マリアの警告の意味——。
すべてが、まだ霧の中にあった。
不意に、扉の向こうで小さな音がした。神崎は素早く身を起こし、足音を殺して扉へと近づく。誰かが覗いていたのか?
扉を開けると、薄暗い廊下の奥に人影が見えた。よく見ると数人の男たちが、こちらをじっと見つめていたのだ。
「……何の用だ?」
神崎が静かに問うと、一人の男が一歩前に出た。
「お前がここにいることを、俺たちはまだ認めちゃいねぇ」
低く、警戒を孕んだ声だった。神崎は内心ため息をついた。やはり、簡単には信用されないか。
「……俺は影に招かれた。お前たちが何を疑おうと、俺の知ったことじゃない」
「そうやって藤堂のスパイが潜り込んできたことは、これまでにもあった」
別の男が言う。
「影が信用してるからって、お前もすぐに信用できるわけじゃねえんだよ」
「影が決めたことに、文句を言うのか?」
神崎は静かに睨み返した。
男たちはしばらく睨み合った後、「……まぁいいさ」と呟き、そのまま廊下の奥へと消えていった。
「歓迎されてねぇな」
神崎は皮肉っぽく呟くと、部屋の中へ戻った。ベッドに腰を下ろし、思案する。
——レムナントは藤堂と戦うつもりなのか?
影は「本当の秩序を取り戻す」と言ったが、その言葉の真意はまだ見えない。彼らの言う「本当の秩序」とは何なのか?
マリアは「ここにいてはいけない」と言った。俺は今、間違った道を選ぼうとしているのか?
「……わからねぇ」
呟いた瞬間、ドアがノックされた。
「入れ」
扉が開き、影が姿を現した。
「目が覚めたようだな」
影は相変わらず静かな口調だった。
「少し話そう」
影はそう言って背中を向けて歩き出し、神崎は影の後に続いた。
向かった先は、影の部屋なのだろう。薄暗い部屋で、影と向かい合う。
「俺に何をさせる気だ?」
神崎が単刀直入に問うと、影は静かに微笑んだ。
「まず、お前自身に考えてもらおう」
「考える?」
影は指を組みながら言った。
「お前は、今のこの島をどう見ている?」
「どう見ている、か……」
神崎は天井を仰いだ。
藤堂の支配。秩序があるように見えて、実際は暴力で成り立っている。一方で、犬どものような無秩序は、結局、崩壊するしかなかった。
「この島は地獄の楽園だよ。ある意味、よくできた秩序だ」
「……だが、その秩序が崩れつつある」
影が言った。
「藤堂は焦っている」
「そう見えるな」
「なぜだと思う?」
神崎は考えた。
「犬どもが消えて、支配はより強固になったはずなのに……妙に神経質になっている」
影は頷いた。
「だからこそ、お前に見せておきたいものがある」
影が立ち上がり、神崎を見下ろす。
「……見せたいもの?」
「そうだ。お前がここに留まるか、それとも別の道を選ぶのか——決める前にな」
影の目が微かに光る。
「明日、ある場所へ向かってもらう」
「どこだ?」
「島の北側にある"処刑場"だ」
神崎は眉をひそめた。
「処刑場?」
「そうだ。お前がこの島の"本当の秩序"を知るために、見ておくべき場所だ」
影はそう言い、背を向ける。
「今夜は休め。明日、お前の目で確かめるんだ」
神崎は影の背中を見つめながら、思った。
——処刑場。
藤堂はどんな秩序を作っているというのか?そして、俺は何を選ぶのか——。
あなたはここにいてはいけない――
神崎はふとマリアの言葉を思い出して、静かに息を吐いた。