第一章「監獄の亡霊」第11話「新たな影」
藤堂の一味が犬どもの拠点を襲撃してから、まる二日が過ぎた。あれから島の空気はあきらかに変わった。
犬どもが消え、藤堂の支配がより強固になったはずなのに、なぜか妙な緊張感が漂っているように感じられる。藤堂の部下たちの動きがなにか変だ。犬どももいなくなったはずなのに、慌ただしいのだ。まるで、何かが迫っているような——静かだが、不吉な気配があった。
神崎はぶらりと町の様子を見て回る。昨日コウタが粛清された場所は、やつの血で赤黒く染まっている。神崎は立ち止まって目を閉じた。
配給の列に並ぶ囚人たちの態度は以前にも増して従順になったようだが、どこかぎこちなく感じた。皆、口数が少なく、ただ黙々と食料を受け取り、すぐにその場を去っていく。
それだけではない。藤堂の手下たちは以前より頻繁に町を巡回し、囚人たちのほんの些細な違反にも容赦なく暴力を振るっていた。昨日までは見なかった光景だった。その変化は、誰の目にも明らかだった。
まるで、焦っているみたいだな——
そう考えた瞬間、通りの端で数人の囚人が地面に蹴り倒されるのが見えた。殴るのは藤堂の手下たち。地面に這いつくばるように倒れているのは、犬どもの残党らしい。
「てめぇら、まだこの島でのルールがわかってねぇのか? 殺されてえのか」
一人の男が、血を吐きながら呟いた。
「……昨日まで、何もなかったくせに……急にどうした?」
神崎はその言葉に引っかかりながらも、ゆっくりとその場を離れた。
「お前、まだここにいるのか?」
気配を感じ、振り返ると、リュウジが壁に寄りかかっていた。いつものように煙草を咥え、気怠げに笑っている。
「なあリュウジ。藤堂の奴らの動きが何かおかしかないか。何か焦ってるというか」
神崎は自分の中で積もっていたものをぶつけてみた。
「さすがだな。気がついたか」
リュウジはニヤッと笑う。
「お前、もしかして何か知ってるのか?」
神崎が問うと、リュウジは肩をすくめた。
「知ってるってほどじゃねぇが……まぁ、少しはな」
リュウジは煙を吐き出しながら続けた。
「藤堂が焦ってる理由、やっぱり気になるか?」
神崎は黙ってリュウジの言葉を待った。
「島の北側でな……何か変な動きがあったらしいぜ」
「変な動き?」
「ああ。藤堂の手下が何人かそこに向かったんだが……どうも帰ってこねぇらしい。――たった一人も、な」
神崎の眉がわずかに動いた。
「つまり、そいつらは"何かに狩られた" ってことか?」
リュウジは口の端を歪めた。
「さてな……ただ、今まではこの島で藤堂の支配に手を出せる連中なんていなかったはずだ。犬どもだって面と向かっては手までは出せなかった」
そして手を出したとたんに、あれだ——口には出さないが、リュウジはそう言いたかったのだろう。
神崎は考え込んだ。犬どもがいなくなった今、新たな勢力が台頭しているというのか?
「お前も興味あるんじゃねぇのか?」
見透かしたように、リュウジが静かに言った。
「ここじゃない生き方に——」
「……お前は、いったい何を知ってる?」
だが、リュウジは答えず、ただ煙を吐くだけだった。
「お前は、どうするつもりだ?」
「……さあな」
神崎は短く答える。リュウジは肩をすくめた。
「まぁ、どこにいても地獄に変わりはねぇってことか」
「それよりお前、腹減ってねぇか?」
リュウジがジャケットの内側から、小さな紙包みを取り出し、神崎に投げた。
中身は、乾燥した肉と固いパンだった。
「……お前、これをどこで?」
「ここでは俺は調達屋と呼ばれてるんだよ。言ってなかったか?」
リュウジは軽く笑い、煙草の煙を吐き出した。
「調達屋?」
「この島じゃ、藤堂の配給だけがすべてじゃねぇ。裏には裏のルートってもんがある。物を流す奴がいて、欲しがる奴がいる。それが成り立つ限り、商売はなくならねぇ」
「密輸か?」
「さあな」
リュウジはとぼけたように肩をすくめた。
リュウジと別れ、宿舎に戻って部屋の前に立ったとき、何か違和感を覚えた。
誰かがここに来た——
周りの気配を目でそっと確認し、ゆっくりとドアから少し離れた。ドアの足元の隙間から、白い紙が一枚滑り込んでいるのが見えた。ドアは開けずに、紙だけを指でつまんで拾い上げ、広げると——
「明日、北の廃工場に来い。そこに、お前の知りたい答えがある」
黒々とした文字でそう書かれていた。神崎はその文字をじっと見つめた。
これは誰が書いたのか? まさか藤堂か?
だが、神崎の鋭い直感は、違うと告げていた。やはり何かが動き始めている。そして、それは——敵か味方か、まだわからない。
神崎はその紙を折りたたみ、ポケットに押し込む。
「……北の廃工場、か」
呟くと、宿舎の小さな窓から外を見た。
空にはどんよりとした灰色の雲が広がっていた。だが、それはただの曇天ではない。 まるで、何かの前触れのような、重苦しい気配が滲んでいる。
「妙な厄介ごとじゃなければいいがな」
神崎は小さく息を吐いた。しかし、もう覚悟は決まっていた。
行くしかない。