第一章「地獄の楽園」第9話「逃亡と選択」
焚き火の炎が、闇の中で頼りなく揺れていた。犬どもの拠点には、不安と疲弊が漂っていた。昨夜の襲撃で負傷した者たちが呻き、動ける者たちも不安げに顔を見合わせる。だが、それだけではない——何も起こらないことが、逆に恐怖を増幅させていた。
本来なら、すぐに反撃があるはずなのに、それが来ない。朝になっても、昼になっても、島は静かなままだった。藤堂の動きが見えないことが、かえって犬どもたちを疑心暗鬼に陥れていた。
「……もう終わりだ」
誰かが低く呟いた。
「昨日の襲撃であんなにやられて、次に来たら……俺たち、どうなるんだよ?」
沈黙が拠点を包む。昨夜の戦闘で仲間が何人も倒れ、戦力は著しく落ちている。 残った者たちも士気が下がり、わずかに残る希望すら見失いかけていた。
「……ふざけるな」
その静寂を破ったのは、コウタだった。
「藤堂の連中にやられたからって、ビビってんのか?」
コウタは焚き火を挟み、立ち上がる。その顔は血だらけだったが、目にはまだ闘志が宿っていた。
「ここで引いたら、本当に終わりだ。次に来るなら迎え撃つ。それしかねぇだろ!」
しかし、誰も何も言わない。顔を伏せる者、焚き火の炎を見つめる者、わずかに震える者——すべてが、何かを恐れていた。
「……もう、さすがに無理だよ」
静かに、しかし確信をもった声が響いた。
「昨日の襲撃で、藤堂は本気を出した。次は……」
「だったら、どうする?」
コウタが鋭く言葉を切る。
「逃げるのか? どこに? ここは島だぞ?」
「……なら、降伏するしかねぇだろ」
小さく呟いた男に、コウタが鋭く睨みつける。
「お前、今なんつった?」
「藤堂の元に戻れば、助かるかもしれねぇ……」
「藤堂に這いつくばれというのか?」
その言葉が広がると、犬どもたちの間にピリついた空気が流れた。戦うか、降伏するか、それとも逃げるか——誰もが決断を迫られていた。しかし、その議論は一瞬で終わった。
ドンッ!!
突如、爆発音が響いた。
「——来た! 奇襲だ!」
誰かが叫ぶと、焚き火の光が揺れ、闇に潜む人影を映し出した。藤堂の手下たちだった。
「やっぱり来やがった!」
足音が規則的に響き、じわじわと包囲を完成させていく。
神崎は壁際に立ち、耳を澄ませた。
——潮風に混じり、低い掛け声が聞こえる。
命令を交わしているのだろう。藤堂の手下たちは、ただ襲撃するだけでなく、確実に犬どもを仕留めに来たのだ。
そして——
ヒュン——パチン!!
四方から火矢が放たれ、建物の壁に次々に突き刺さる。その火が建物に燃え移り、炎があたりを赤く染めた。
「焼き討ちにする気だ!」
「水だ。ありったけの水を持ってこい!」
犬どもたちが叫ぶが、すでに混乱は始まっていた。逃げ出す者、叫びながら武器を取る者——すべてがバラバラだった。
「おい、何をしてる! 迎え撃て!!」
コウタが叫ぶ。だが、その言葉はもう誰の耳にも届いていなかった。
「チッ……」
そのころ、少し離れた場所にいた神崎は静かに戦場を見つめた。
——やはりこれは、負け戦だ。勝ち目はない
犬どもには統率がない。一方、藤堂の部下たちは確実に犬どもの拠点を制圧し始めていた。
「お前、どうする?」
隣で、リュウジが煙草を咥えながら言う。
「……見ての通りだ」
神崎は短く答える。
リュウジは肩をすくめた。
「まぁ、俺ならこんな泥船には乗らねぇけどな」
「だからこそ、俺はここにいる」
リュウジは神崎をじっと見つめたあと、薄く笑った。
そして——
神崎が見つめる先では戦闘が本格的に始まっていた。ただし一方的に――
「くそっ、囲まれたぞ!」
犬どもたちの悲鳴が響く。無秩序な彼らは、組織だった藤堂の手下たちに次々と倒されていく。
「ちくしょう……!」
コウタは拳を握るが、もはや戦況を覆す術はない。
神崎は、冷静に分析をしていた。
藤堂の支配が強固なのは、その指導力と組織力によるもの。対して犬どもは、ただの寄せ集めに過ぎない。さすがに限界だ――
「撤退だ! 全員、逃げろ!!」
そのときコウタの声が響いた。その声を待っていたかのように、残っていた犬どもたちは、ばらばらに拠点を離れていった。
しばらくすると辺りが急に静まり返った。犬どもの拠点を完全に制圧した藤堂の勢は意気揚々と引き上げていった。戦いが終わった広場に、焚き火の燃え残りが小さく揺れていた。
リュウジが低く言う。
「こりゃもう終わりだな」
コウタの戦争は、ここで幕を閉じたと言っていいだろう。それは藤堂の支配が、再び確立されたということを意味するのだ。
リュウジが煙草をくゆらせながら、ぽつりと言った。
「お前、どうするよ? まだ、ここにいるのか?」
神崎はしばらく黙ったあと、焚き火を見つめながら言う。
「……さあな」
リュウジは真っ黒の空に向かって煙を吐き出した。
「そろそろ潮時だぜ。今夜のうちに、身の振り方を決めとくことだな」
火の粉が舞い、赤く燃え落ちる。神崎は静かにその炎を見つめていた。