第一章「地獄の楽園」第8話「火種」
犬どもの拠点に戻った神崎が、犬どもの様子に違和感を覚えたのはすぐだった。 辺りに漂う空気が、どこか異様だ。焚き火を囲んでいた犬どもたちは、不安げにささやき合い、視線を交わしている。普段なら笑いながら乱暴に食べ物をむさぼる連中が、誰一人としてまともに口を開かない。
「何があった?」
神崎が低く訊くと、一人の男が指を差した。拠点の壁に、血のようなもので殴り書きされた文字があった。
次は潰す――
まるで処刑予告のような一言。
「……藤堂の奴らか」
神崎が壁を見上げながら呟くと、後ろで誰かが舌打ちした。
「もう終わりだ」
低く、怯えた声だった。
「もともと俺たちに勝ち目なんかねぇんだ。本気になったあいつらに潰される前に、逃げるしかねえ」
「馬鹿言え!」
すぐに怒声が飛ぶ。
「逃げたところでどこに行くんだ? ここは島だぞ」
「俺たちは藤堂から逃げてここにいるんだ。これ以上どこにに逃げんだよ」
「従うっていう手もある……」
「は? 今さら藤堂のケツ舐めるってか? お前、正気か?」
犬どもの内部で、意見がはっきりと割れ始めていた。そこへコウタが、ゆっくりと腰を上げて言った。
「一つだけ先に言っておく。逃げる気のある奴は、止めやしない。俺たちはこれまでだってそうやってきたんだ。逃げたいなら今すぐに出て行け」
突き放すような、冷徹な声だった。
「だが、ここにいるなら、腹をくくれ。そして覚悟を決めろ。もう賽は投げられたんだ。戦うか、殺されるかだ」
誰も返事をしないまま、沈黙が広がる。誰も動こうとしなかった。
混乱する犬どもたちの様子を見ながら、神崎は焚き火の前に腰を下ろした。その隣に、リュウジが座り込む。
「やべぇな、こりゃ」
煙草を咥え、火をつける。
「藤堂が本気で動くってことか?」
神崎が訊くと、リュウジは煙を吐き出しながら頷いた。
「ああ間違いねぇ。アイツら、今までは手加減してたんだよ」
「手加減? 藤堂がか」
「そうだ。今までは犬どもなんて、どうせバラバラの集団だ。ただ目障りなだけで本気で戦う必要なんかなかったんだ。だが、犬どもが藤堂を攻めるなんていう馬鹿な計画がバレちまった。これではっきりと敵対してると認識したはずだ。今までとは違う。奴らは今度は容赦しねえよ。藤堂は完全に潰す気だ」
神崎は焚き火を見つめながら、静かに考え込んだ。
「……それだと犬どもは持たないな」
リュウジが乾いた笑いを漏らす。
「ああ。お前だって、もう気づいてんだろ?」
神崎は何も言わなかったが、その沈黙がすべての答えだった。
「結局無秩序は、勝てねぇよ」
リュウジがポツリと呟いた。
「いいか悪いかは関係ねえ。この島は絶対的に藤堂が支配してる。ここに生き残る道は、強い秩序を持つか服従することだ」
神崎は視線を落とした。彼が言うことは正しい。だが、藤堂に従うことが唯一の道とも思えなかった。他に道を探すという選択はないか。
「次はお前も巻き込まれるぞ」
リュウジが言う。
「このまま犬どもと一緒にいりゃ、死ぬだけだ」
「……それは俺が決めることだ」
神崎は立ち上がる。リュウジは肩をすくめた。
犬どもたちはまだ焚き火を囲み、低い声で話し合っていた。その中央で、コウタがゆっくりと口を開く。
「……まだやれる」
沈黙。
「まだ、やれるんだよ」
彼の声には、いつものような自信がなかった。
神崎はそれを感じながら、焚き火を見つめた。コウタは必死に自分を奮い立たせようとしている。だが、その言葉には迷いがあった。
犬どもはバラバラになりつつある。
神崎は考えていた。このまま、犬どもみたいに藤堂との戦いを続けるつもりか。それとも、別の道を探すのか。
「戦争は始まっちまったんだ。どこかに腰を据えるしかねえよ」
リュウジが低く呟いた。
神崎は、リュウジが言った「地獄の楽園」という言葉を思い出した。地獄とはいえ、それなりに秩序がある間は楽園と思えないこともない。 藤堂に這いつくばればいい。自分のプライドが許しさえすれば、まさに「地獄の楽園」には間違いない。だが、その秩序が崩れ始めた今、もうこの島は楽園とは名ばかりの地獄だ。
そして今、その地獄に、新たな火種が投げ込まれたのだ。