プロローグ①「地獄行きの船」
波が荒れていた。船体が大きく揺れるたび、鉄格子の奥で誰かが小さく呻いた。
神崎慧は、冷たい金属の床に座り、ぼんやりと壁を見つめていた。手首には頑丈な手錠、足には重い鉄の足枷。この監獄船に乗せられた時点で、もう人権なんてものは消え失せた。
行き先は「ダンテ・アイランド」──そう呼ばれている場所だった。政府は、その存在を否定している。公には、そんな島など存在しないことになっている。
だが、裏社会ではこう言われている。
──消えた死刑囚が辿り着く島がある
──刑務所で問題を起こした者が、ある日突然、姿を消す
──一度入れば、決して戻れない場所
ただの都市伝説かもしれない。だが、確かめようにも、そこに送られた者の消息は誰一人として分からない。だからこそ、事実なのか、ただの作り話なのかも分からない。だが、一つだけ確かなことがある。
──俺は今、そこへ向かっている。
「おい、見ろよ」
隣に座っていた囚人が、鉄格子の向こうを指差した。霧の向こうから、巨大な島が姿を現す。黒い岩肌がむき出しになった海岸線。島の中央には、そびえ立つ要塞のような建物。かつては軍事施設だったらしい。だが、今は「社会に不要」とされた者たちが集められる場所になっている──という噂だった。
神崎は目を細めた。鳥の影すら見えない。ただ、暗く重い空と、荒れた海が広がるだけの景色。
──ここが、俺の終着点か。
「もうすぐだ」
武装した警備兵が低く呟いた。彼らは黒い防弾ベストを着込み、ライフルを構えている。だが、これは囚人を「護送」しているのではない。送り届けたら、それで終わり。この島に入った囚人がどうなろうと、関係ないという態度が透けて見えた。生きるも死ぬも、すべて囚人の勝手。これが、ダンテ・アイランドの掟らしい。
船が島の岸壁に横付けされる。赤茶けた鉄の桟橋が、不吉な軋みを立てる。おもしろいことに誰も迎えに来る者はいない。ここには看守も管理者もいないという話だった。ならば、この扉の向こうには、一体何があるのか。
「降りろ」
警備兵がライフルの銃口を向けながら言う。神崎はゆっくりと立ち上がった。すぐに別の警備兵が近寄ってきて、首からぶら下げた鍵を使い、足枷と手錠を外す。
――自由になった。
そう感じたのは一瞬だった。
神崎は無意識のうちに、ほんのわずかだけ体を低くした。
足に力を込め、一気に走り出せば──
撃たれるか? それとも、躱せるか? 逃げるとしたら、今しかない。
だが、その考えが頭をよぎった瞬間、数挺のライフルが一斉に自分へ向けられるのを感じた。警備兵もこんな男には慣れているようだ。
神崎は静かに息を吐き、逃げるという選択肢をすぐに捨てた。ここで何人殺せたところで、どうせ最後は蜂の巣だ。警備兵たちの冷たい目を見れば、それが確信に変わる。
──ならば、ここは大人しく従ってやるさ。
神崎はゆっくりと桟橋へと降りた。背後では、別の囚人が震えながら抗議の声を上げる。
「頼む! こんなとこに入れたら死ぬしかねえ!」
「そんだけのことをした報いだろ。てめえの居場所はここしかねえんだよ」
銃の台尻で殴られた囚人が大仰に悲鳴を上げ、桟橋に叩きつけられた。彼の額から血が滴ったが、誰も助けようとする者などいるはずもない。
神崎はただ、促されるままに前を向いて歩いた。
岸壁の先には巨大な鉄の扉があった。高さは4メートルほど。錆びてはいるが、簡単には開かなそうだ。その横に立っていた警備兵の一人が、神崎を見下ろして言った。
「この扉を押して向こうへ行け」
――入ったら終わりか
神崎が少しだけ歩みを止めた途端に、銃口で前へ進めと促されて再び歩き出すしかなかった。
「この先が、お前の住処だ」
神崎が扉の前に立った瞬間、背後でカチリと音がした。振り向けば、警備兵たちがライフルを構えている。
「撃つつもりか?」
神崎は静かに問いかけた。
「必要ならな」
その言葉には、一切の感情がなかった。
神崎は小さく笑い、鉄の扉を押した。軋む音とともに、鉄の扉が開く。中からは、どす黒い空気が流れ出してきた。
血の臭い、汗の臭い、汚れた獣の臭い──
ここが地獄であることを、肌で感じた。神崎が扉をくぐると、背後で無情な音が響いた。
──ガシャン。
振り返ると、鉄の扉が閉ざされていた。
そこには鍵も取っ手もない。つまり、中からは二度と開けられない仕組みだ。
──もう戻れない。
神崎はゆっくりと歩き出した。