特異点
「ここが魔獣の森ですか。なるほど……」
ダンジョンに似つかわしくない和服に身を包んだツバキが呟く。彼女の眼差しはいつになく真剣だ。
ここは日本国内に三つ存在する、未踏破ダンジョンの一つ、《魔獣の森》の入り口。
並んで立つマリアは、ダンジョン探索に適した動きやすい服装をしている。
「はい。報告の通り、やはり異常が起こっているようです」
「どうやらそのようですね。この圧、どう見てもS級ダンジョンではありません。気をつけて参りますよ、マリア」
「はっ」
マリアはそんなツバキを見て安心した。
さっきまでは佐藤太一のことで頭がいっぱいだったようだが、今は切り替えて集中しているように見えたからだ。
多少、弟子への想いが行きすぎている面もあるが、そこはやはり超一流の探索者。ダンジョン探索となると切り替えが早い。
研ぎ澄まされたツバキの集中力はどこまでも静かで、一切の感情の揺らぎすらも感じられない。
二人は《魔獣の森》に、足音ひとつ立てずに入っていく。
『グォオオオオッッ!!』
そこで二人が目にしたのは、三つの頭を持つ魔獣――。
神話のなかで煉獄の門番を司る、《ケルベロス》のようなモンスターだった。
その咆哮は空気を揺るがせ、ツバキの艶やかな黒髪が風に靡く。
だが、当のツバキは表情を変えることはない。
一切の恐れもなく、ケルベロスを淡々と見つめるのみ。
「ずいぶん大きなワンちゃんですね」
「はい。見た目からして《ヘルハウンド》の特殊個体でしょうか」
ヘルハウンド。
討伐難易度S。巨大な体躯を持つ、狼のようなモンスターだ。
《魔獣の森》第一階層のフロアボスでもあるモンスターの、それも《特殊個体》がいきなり現れたことにも二人は動じることはない。
それどころか、ツバキはそのモンスターがまるで存在していないかのように歩を進める。
少しずつ、確実に両者の距離が縮まっていく。
10メートル。
『グォオオオオッ!!』
5メートル。
『グォォ……?』
そしてついに、両者はツバキの間合いへと至る。
『グ、グゥゥ……』
先ほどまで威勢のよさはどこへやら、ケルベロスは低く唸るのみ。
そしてケルベロスのことを一瞥もしないまま、ツバキが横を通り過ぎようとする。
だが、ケルベロスは動かない。……いや、動けない。
野生の本能で、この小さな人間が圧倒的強者だということを理解してしまっていたのだ。
そのまま、両者がすれ違う。
その瞬間。
――リィィン。
無音が支配していた空間に、鈴の音の残響のような音が鳴り響いた。
『グォ? ――…………』
――ずるり、と。
ケルベロスの身体がゆっくりとズレていく。
ツバキの、神速の居合――。
ケルベロスは自分が斬られたことにも気づかないまま、光の粒子となって消えてゆく。
「先を急ぎましょうか、マリア」
「はい、ツバキさま」
言い残し、二人は振り返ることなく歩いていく。
その場には、ツバキが纏う香のような香りと、ケルベロスがドロップした魔力結晶だけが残されていた。
(はぁ……太一はどこにいるのでしょうか)
そして――凛とした表情をしているツバキの頭の中は、やはり愛弟子のことでいっぱいだった。
今しがたツバキが切り捨てたモンスターは、元々このダンジョンを攻略していたパーティを壊滅に追いやった、強力なモンスターであったにも関わらず、だ。
もちろん、ダンジョンのことを舐めているわけでも、油断しているわけでもない。
ただ、あまりに差がありすぎただけだ。
「マリア、先を急ぎましょう」
「はい」
先をゆくツバキを、モンスターの情報をメモにまとめながらマリアが追いかける。
(なるほど……確かにこれは異常事態です)
マリアの仕事は、主に情報収集と情報の分析だ。
だが探索者としての実力もS級に匹敵する。
そんな彼女は冷静に現状を整理していた。
(もう少し来るのが遅れていたら、ダンジョン崩壊の可能性もあったかもしれません)
ダンジョンの異常とともに、《神々の庭園》と《幻影の塔》、そして《魔獣の森》は急激な活性状態となっていることが観測されている。
特にこのダンジョンの活性指数は高い数値を示していた。早ければ数日以内にダンジョン崩壊の危機があったのだ。
(まぁ、ツバキさまがいれば大丈夫ですけれど)
マリアは、ツバキに絶対的な信頼を置いている。
かれこれ二人がペアを組んで10年近く。長い付き合いの中でマリアは、ツバキの強さを思い知っていた。
最強の武と、最強の知。
二人はダンジョンの奥へと足を進めていく。
――そしてこの日、日本に現存していた三つの未踏破ダンジョンが、同時に攻略されることになる。




