最終話 川原課長と鬼本くん
車内に沈黙が走った。多分、ほんの一、二秒だろう。
しかし、それすらも今の僕にとっては長すぎる。
「漫画……読んでみて、その……正直、すごく感動した。それで……」
「……やっぱ見てたんすね。あのメモ」
鬼本の声色が表しているのは、驚きだろうか。それとも戸惑いか、あるいは恥ずかしさだろうか。
もしくは、怒り――浮上した答えから、助手席から、僕は目を逸らす。
「……すまない。君のことがどうしても気になって、調べてしまった」
自分から明かしておきながら、怖気付いていた。粘着だのネットストーカーだのと糾弾される、最悪のシナリオさえ頭をもたげだしていた。
「何すか、それ……」
憎まれ役には慣れきっていたつもりだった。
なのに、今は。
僕は、鬼本だけには嫌われたくない――!
「本当に、すまな――」
「川原さん、俺のこと好きすぎじゃないっすか」
車窓越しの光に照らされた、満面の笑みがそこにあった。
僕は力が一気に抜けていくのを感じた。喜びと安堵とで、どうにかなってしまいそうだった。自分が何を口走っているのかも気付かないほどに。
「す、好きで悪いかぁっ!」
「悪くなんてないっす……嬉しいっす。てか、最近俺の漫画に沢山〝いいね〟してくれてた『ゲオルク』さんって、丈士さんだったんすね」
(バレてたぁ――ッ!!)
僕は自分の迂闊さに頭を抱えた。急造したアカウント名が露骨すぎたのか。
「感想を送るべきか迷ったんだが、君も返信するのが忙しいんじゃないかと、渋ってしまってな……」
「気にしてないっすよ。それに俺ら、言いたいことがあったらこうして直接話せる仲じゃないっすか」
お互いの肘も触れ合うほどの距離。鬼本の体温が、気遣いが、思いやりが、ひしひしと伝わってくる。
以前からずっと不思議だったことがある。鬼本が言うように、聞きたいことは面と向かって聞くべきだ。
「どうして君は、僕をそんなに気にかけてくれるんだ?」
「それは……川原さんがいつも辛そうに見えたから」
鬼本の言葉に、改めて僕はこれまでの生き方を振り返る。
業績のため、組織のためと肩肘を張って、自分を追い詰めてきた十年間は、知らず知らず僕の人生から大切なものを奪い去ってしまったように思う。
そんな乾ききった日々に潤いを取り戻させてくれた人が今、僕の隣にいる。
「鬼本君……」
「甘い考えかもしれませんが、俺はみんなに幸せでいてほしい。笑顔でいてほしいんです……好きな人にはなおのこと」
聞き間違いではない。いつになく真剣な眼差しと話しぶりが物語っている。
「川原さん、俺の恋人になってください」
「ああ……僕からもお願いする。僕には……君が必要だ」
狭い車内、左手と右手、ぎこちない握手と、愛しい人のはにかんだ表情。僕はこの瞬間を一生忘れない。
*
どんなに充実した休日の後にも当然、出勤の日がやって来る。
我が特務課は、本日も絶好の雑用日和だった。
午前中の仕事がようやく終わろうとしていた頃、僕のデスクに鬼本が走り寄って来た。
「川原さ……課長、一緒に昼メシどうっすか?」
「僕もそうしたいが、この郵便物を広報部に届けなければならなくてな――」
僕が誘いを断ろうとした時、電光石火の勢いで誰かが包みを引ったくった。
「私に任せてください!」
「ふ、藤吉さん……いいのか?」
「勿論です! 命に代えてでも届けて参りますので、お二人はどうぞ仲良くお食事に行ってらしてください!」
こちらの返事も聞かず、藤吉さんは脱兎の如くオフィスを飛び出して行ってしまった。
「彼女、最近ずいぶんと張り切ってるな……」
「バリキャリっすね。ま、俺らはありがたくメシ食いに行きましょうよ」
昼食は社員食堂で一人きり、というのが長らく僕のライフスタイルだった。
それもここ数週間で、すっかり様変わりしてしまった。
(まさかこの僕が社内恋愛とはな……)
テーブルを挟んで、カレーうどんを豪快にすする鬼本が、不意に視線をこちらへ向けた。
「……ん? 何考えてんすか?」
「いや……君はそもそも、どうして僕を、す……慕ってくれるようになったのかと思ってな」
僕はお世辞にも出来た上司とは言えなかったはずだ。それなのに、鬼本がこんなにも僕を好いてくれているのは何故なのだろう。
「憶えてますか? 俺が配属されて来た日、川原課長がかけてくれた言葉」
「僕が……?」
――前の部署では教育係にも匙を投げられたそうだな。だが、僕は君を絶対に見捨てたりはしないと約束する。何が何でもこの特務課のために役立ってもらうからな。覚悟しておくように――
「言葉通り、課長は俺が何度失敗しても見放したりしなかった」
「そんなこと、上に立つ者として当然の責任だろう」
「課長ならそう言いますよね。でも、俺は信じてなかったんです。この人もすぐに俺を見限るに違いないって、開き直って適当な態度取ったりして……」
きまり悪そうに目を伏せる鬼本。こんな反応は初めてだ。
「まさか……普段から失敗が多いのも、僕を試すためにわざと……?」
「いや、仕事のやらかしはガチです」
「そうなんだ……」
「とにかく、川原課長は根気よく俺に接し続けてくれた、初めての人なんです。だからっていい加減、甘えるのはやめにしないといけませんよね」
再び鬼本と視線が合った。淀みのない澄んだ眼差しが眩しい。やはり僕は、鬼本に本音を隠すことなどできそうもない。
「そう言わずにもっと甘えてもいいんだぞ? 僕は鬼本君の…………なんだからな」
「……いえ、仕事はきちんと頑張りますよ」
鬼本は席を立ち、僕にそっと耳打ちする。
「その分、プライベートでたっぷり甘えさせてもらいますんで」
「……っ…………!!」
甘い囁きが身体中を駆け巡る。だが……だが僕はまだ完全に負けたわけじゃない。
鬼本め、僕は何度でも受けて立つからな。覚悟しておくがいい――!
(おわり)