第4話 その時、電流が走ったんだ
駐車場までは徒歩で二分とかからない。そのわずかな時間が、今までの人生のどの二分間よりも長く感じる。
僕は鞄を胸の前に抱え、傘を差した鬼本と寄り添いながら、雨の中を歩いていた。
今僕はどんな表情をしているのだろう。もし浮かれた顔をしていたのなら、夜闇が覆い隠してくれればいいに、と思う。
「そういえば、まだプリンの礼を言っていなかったな」
「え、こないだのっすか? 別にいいっすよ。二百円ぐらい」
「値段の問題じゃない。その……気持ちが、ありがたかった」
どうせ雨音に紛れて聞こえやしない。そう思っていた。
「こちらこそ……あざっす」
「な、何で君が礼を言う? 日頃世話になっているのは僕の方だぞ?」
そう口にした後で、おかしさに気が付いた。部下たちを、上司の足を引っ張る邪魔者としか思っていなかった、自分の傲慢さに。
僕はいつから、そんな考え方をするようになってしまったんだろう。
(先生……やっぱり僕は――)
*
あの日も、窓の外ではこんな雨が降っていた。
中学校の教室は、無秩序に騒ぎ回る生徒たちの声で満ちていた。
一言で言えば、学級崩壊。打つ手のなくなった担任教師は、肩を落としたまま黒板に向かい、黙々とチョークを走らせていた。
良く言えば優しい、悪く言えば頼りない先生だった。
学級委員だった僕は、先生を助けてあげなければいけないと思った。だから、秩序を乱す者には容赦をしないと、自分に誓った。
中学、高校、大学――そして、今の会社。自分にも他人にも厳しく接してきた。
けれど、それは結局、誰のためだったのだろう。
一体、誰のためになったのだというのだろう。
僕はただ、大好きな先生に笑顔でいてほしかっただけなのに――
*
(僕は……間違っていたというのか……?)
「そんなことないっす」
鬼本の声で、僕は現実に引き戻された。
「世話してもらってるのは俺の方っす。俺がこんな風にヘラヘラしていられるのも、川原課長がきっちり仕事してくれてるからなんで」
「しかしだな……」
厳しすぎたのだ。今も絶え間なく降り注いでいるこの雨のように、頭ごなしに冷たい言葉を浴びせ続けて、僕はみんなの心から情熱や温かみを奪ってしまった。
「大丈夫っすよ。口じゃ文句言ってても、みんな分かってくれてますって」
「そう……かもしれない。だが、やはりそれでは不十分だ。僕は皆に理解してもらうための努力を怠っていたんだ」
そう気付かせてくれたのは、誰あろう鬼本なのだ。
「ホント真面目っすね」
「真面目だけが取り柄だからな」
稲妻に照らし出された鬼本の笑顔が眩しい。
……ん? 稲光ということは――と気付いた直後、とびきり大きな落雷の音が辺りにこだました。
「うわぁあああ――っ!!」
鞄を抱えていて助かった。でなければ、驚きに乗じて鬼本に抱きついてしまっていたかもしれない。
「ハハッ……いや、すんません。あまりにも大袈裟に驚くもんで」
「き、君こそ、ちょっと落ち着きすぎじゃないのかっ!? 万が一、僕たちの頭の上に雷が落ちてきたらどうするつもりだ!?」
「課長と一緒に感電死っすか……悪くないっすね」
「な……っ!?」
何という不意討ち。僕の全身を雷のような衝撃が駆け抜けた。
いや、冷静に考えろ。鬼本は僕をからかっているだけなのだ。そうに違いない。
だとしても、僕のこの気持ちは――
「着きましたよ」
鬼本の足が止まる。僕たちはいつの間にか、立体駐車場の軒下まで到着していた。
「ああ。今日は……ありがとう」
「どういたしまして」
そう言って、鬼本はパーカーを脱ぎ、僕の肩にかける。
「おい、鬼本く――」
「体冷やさずに。おやすみなさい」
こちらの返事も待たずに、鬼本は雨の中を行ってしまった。
*
マンションの自室へと帰宅する。プリンを冷蔵庫に入れ、風呂の湯を沸かし、上着を脱ぎ――と、ここまでは普段どおりだ。
(鬼本の……パーカー)
きちんと洗濯して返すのが筋なのは言うまでもない。
だが、その前に。
(……柔軟剤の香り……ん? もしかして家で使っているのと同じか!?)
同じ匂いを纏っているということは、実質的に僕と鬼本は常時ペアルックのようなものではないだろうか。
(――などと気色の悪い発想をするんじゃないッ! これではまるで僕が変態みたいじゃないかッ!)
自分への腹立ち紛れに、パーカーを洗濯カゴに投げ入れようとして、踏みとどまる。
(……待てよ。あいつのことだ、ポケットにティッシュを入れっぱなしにしていたりするかもしれん)
探ってみれば案の定、くしゃくしゃになった紙がポケットの中から出てきた。
ただし、それはティッシュではなく、メモ帳の切れ端のようだった。
(……ん? 何か書いてあるぞ)
『あんたも素直じゃないな。いい加減俺のものになれよ』
(な……何だとォ――――ッ!?)