第2話 ダメ社員 鬼本ユウタ
「あの……川原課長」
「…………」
「資料のチェック、もうよろしいですか?」
気が付くと、部下が不安そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「あ、ああ。問題ない。このまま提出してくれ」
部下は一礼して去って行く。その間も、僕の頭の中では昨日見た鬼本の表情が幾度となく再生されていた。
――とっても素敵なキスでした! 次が待ちきれません!
(あんなダメ男に親密な女性が……いや、女性とは限らんか……しかしあの文面の感じからすると……)
一般的に考えて、仕事のできない男を好む女性はまずいない。だとすると、そんな致命的欠点を帳消しにして余りある魅力が、あの男には備わっているのかもしれない。
(なるほど。僕の鋭い感性がそれを察知してしまったわけだな)
つまり、僕が鬼本に惹かれているわけでは決してないのだ。ただ、あの男の秘めたる魔性に魅了されてしまっただけで――
(そう、魅了されて…………ち、違うだろう!? 僕は鬼本のことなど何とも思っていない! 断じて!)
「川原課長、今日はやけに大人しいと思わない?」
「何かあったのかしらねぇ。ま、平和で助かるけど」
いかん。部下に心配されている。これでは上司としての威厳に傷がついてしまう。
「……すまない。ちょっと一服してくる」
気分転換が必要だ。僕はしばし席を空けることにした。
*
僕はいつものように自販機で「濃厚いちごオーレ」を購入する。
冷たく甘い液体を喉の奥へ流し込むと、頭が冴えて普段の調子が戻ってくる。いわゆるルーティンというやつだ。
缶ジュースで思い出すのは、中学校での出来事だ。放課後に担任の教師から、何かの手伝いのお礼に奢ってもらったことがあった。
――ごめんな、川原君。役立たずな先生で――
ボサボサ髪で、痩せていて、背が高い先生だった。申し訳なさそうに目を細める表情に、胸の奥が狭くなる感覚がした。
(先生……)
自販機の前を去ろうと、僕が体の向きを変えた途端、
「そこのぉ、あんたぁ」
しわがれた声に呼び止められた。
見れば、風呂敷を背負った老人が、杖をつきながら廊下をよたよたと歩いて来るではないか。
守衛さんに止められなかったということは、誰か社員の肉親かもしれない。
「ええと……僕のことでしょうか?」
「眼鏡かけたぁ、総髪のあんたぁ」
眼鏡でオールバック――どうやら僕で間違いなさそうだ。
「何のご用――」
「孫さぁ、土産ぇ持って来たでよぉ」
「お孫さんですか。お名前をお伺いしても――」
「孫っ子なぁ、ちっとも野菜食わねぇべし、持って来てやったんだぁ」
「あの、まずはお名前の方を――」
「ブロッコリーなぁ、湯掻いて冷凍庫入っちょげってなぁ、言ってやっぺ思ってぇ」
だめだ。耳が遠いせいか、こちらの話が通じていない。
ならばもっと大声で話そうと、僕が息を吸った直後、
「どうしたんすか? 川原課長」
今度は後ろから声をかけられる。振り向くと、そこには馴染みのある背の高い男が立っていた。
「お、鬼本君」
「お年寄りも左右で聞こえやすい方の耳があるんですよ」鬼本は僕とは反対側に回り、老人へ尋ねる。「すんませ~ん、お名前どちら様っすか?」
「あんだってぇ? とんでもねぇ、あたしゃカミサワだよ!」
老人は神沢部長のご親族らしい。僕は鬼本と顔を見合わせる。
「企画部だな。案内して差し上げよう」
「そっすね。俺が荷物持つんで、課長は……」
「分かった」
僕が老人をエスコートしようとすると、鬼本に止められた。
「逆っす。杖持ってない方の腕支えてあげてください」
「あ、あぁ……」
急に手を握られたので、ドキッとしてしまった。
無論、ドキッとしたのは「急に」だからであって、断じて「手を握られた」からではないからな!
*
こうして僕は、鬼本と共に老人を無事孫娘のもとへ送り届けたのだった。
神沢部長からは感謝されたが、僕一人ではこうもスムーズに事は運ばなかったに違いない。
「助かったよ。手際の良さといい、素直に感心した」
「俺が出しゃばるのもどうかと思ったんすけど、困ってそうだったんで、つい」
珍しく褒められたからか、鬼本は満更でもない反応だ――というのは、僕の贔屓目だろうか。
「そうか。君はお年寄りに優しいんだな」
「まぁ……それもありますけど」
「それも」? まさかとは思うが、僕が困っているのを見かねて助けに来てくれた――というのもまた欲目か?
「昔、祖母ちゃんの世話とかしてたんで」
過去形で話されると、察するものがある。踏み込むのは程々にしておこう。
「仲が良かったのか」
「はい。俺が絵を描いてると褒めてくれたりして……まぁ、色々っす」
見慣れたはずの微笑みに、心なしか淋しさが漂う。こういった表情がもしかすると庇護欲をくすぐるかもしれない。
それに、今回の件で僕も鬼本を見直した。仕事はできないが、気遣いはできる男だ。
「そんな君の優しいところを、恋人も気に入ったのだろうな」
「恋人? いや、俺今恋人とかいないっすけど」
口が滑った。偶然とはいえ、スマホを覗き見したのが知られたら事だ。
「いや、君は、その……見た目は悪くないしだな、それなりにモテるのではないかと思ってな」
「……へぇ」
その「へぇ」は何の「へぇ」なんだ!? どういう意味なんだ!?
「素材は悪くないという話だ。身だしなみや立ち居振る舞いで台無しだぞ」
「それじゃ、川原課長が教えてくださいよ」
「僕が? どうして急にそんなことを」
「急じゃないっす。課長のファッションセンス、いつも見てていいなぁって思ってたんすよね」
鬼本が、僕のことを見ていた――いや待て! 僕のファッションを見ていた、だからな! くれぐれも勘違いするなよ!
「ま、まぁ……考えてやらんこともない」
「前向きに検討おなしゃす」
言質を取ったとばかりにほくそ笑む鬼本。自分で言うのも何だが、こんな口うるさい上司に懐いてくる、この男の気が知れない。
だが、悪い気分ではないことは確かだ。