第1話 特務課長 川原ジョージ
三十代前半での課長昇進を喜んだのも束の間だった。
この僕、川原丈士が任されたのは、新設の「特務課」。社長もご大層な命名をしてくれたものだと思う。
「川原課長、例の件でお電話……です」
取り次ぎに来た女子社員の掠れ声を、僕はたしなめる。
「分かったが、その声はどうした?」
「今日は何だか、喉の調子が悪くて……」
「弛んでるな。自己管理も仕事のうちだろう」
「はい……すみません……」
電話対応もまともにできない部下。
それと入れ替わりに視界を横切るのは、なかなか次の仕事に取りかからない部下。
「何をぐずぐずしている。足をどうしかしたのか?」
「その、備品室の電球交換したときに、脚立を踏み外しまして……」
「そういうことはちゃんと報告しなさい」
「いや、でも痛みも大したことないですし」
「そうじゃない。後から労災認定やらで面倒なことになるから言っているんだ」
揃いも揃って使えない者ばかりだ。
それもそのはず、ここは社内のあぶれ者ばかりが流れ着く、雑用処理の専門部署なのだから。
特務課とは名ばかりの雑務課。無能な連中ほど文句だけは一丁前だ。
「川原課長ったら、またお冠?」
「人の心あるのかしらね。まずは身体の心配してあげるのが普通でしょ?」
(フン……全部聞こえているぞ)
四角四面、杓子定規、パワハラ――そういった悪評は自覚している。だが、駄目なものは駄目だと、感情を挟まず指摘してやるのが上司の役割だろう。
誰かが声を上げなければ、組織の規律は際限なく乱れていくのだから。
(僕は……間違ってなんかいない)
自分へと言い聞かす僕の思考を遮るように、能天気な声がオフィスに飛び込んできた。
「ただいまーっす」
特務課きっての問題児の帰還だ。ボサボサの髪を揺らし、ひょろ長い体を猫背ぎみにして歩いて来る彼を、僕は努めて冷静に呼び止める。
「鬼本君……ずいぶん遅かったじゃないか」
「サーセン。コンビニに寄ってましたー」
悪びれもせず言い放つこの男は鬼本遊太。前の部署でもお荷物で役立たずと評判だったダメ社員である。
僕はこの男が大嫌いだ。無論、口には出さないが。
「で、封書は出して来たのか?」
「勿論っすよ! ……あ、藤吉さん。今朝から辛そうっすね。のど飴どうぞ。あと、川原課長にはこれ」
鬼本は返事もそこそこに、同僚たちへコンビニ袋からお菓子を配り始めた。僕はそんなことを許可した覚えはない。
「戻る前に連絡をよこせと言ったはずだが?」
「プリン要らないんすか? 限定のいちご味なんすけど」
「……貰おうか」
この男と仕事をしていると、どうにも調子が狂う。良くも悪くもマイペースすぎるのだ。
(良くも……だと? あんないい加減な男のどこが良いものか!)
データ入力を頼めば平気で一列ずれたまま打ち込み続けるわ、コピーを頼めば紙の表と裏を間違えるわ、不始末には事欠かない。
それでいて、失敗に落ち込む素振りすら見せないのだから、神経の図太さだけは尊敬に値するかもしれないが。
(まぁ、前向きなのは良いことかもしれ……いいや、ちっとも良くないッ!)
イライラしたときは甘いものを食べるに限る。早速といちごプリンを口に運ぶ傍ら、僕は鬼本をどう扱えばよいものか思案した。
(鬼本の奴めぇ……こんな子供騙しで僕の機嫌を取ろうなど……しっとりとした食感と、ほのかな酸味のアクセントが心憎い、いちごの風味がたっぷりの美味しいプリン如きでぇ……! あの男、絶対に理解らせてやるからな……!)
*
翌日、僕はいつものように鬼本を呼びつける。
「これと、この書類だ。それぞれ付箋に書いてある部署に届けてきてくれ」
この男にデスクワークなど任せるだけ無駄だ。いや、無駄どころかミス連発でこっちの首を絞めるまである。
「へーい」
「……返事は」
「はーい」
締まりのない表情と返事が僕をイラつかせる。
それにしても、鬼本はいつも目の下にクマができているな。ちゃんと睡眠を取っているのだろうか。
(……何故僕がこんな男の心配をしなければならないんだ!?)
退室する鬼本の後ろ姿から目を逸らした時、僕は違和感に気付いた。
あの男、デスクの上にスマートフォンを置き忘れているじゃないか。
「おい、携帯を忘れて……」
鬼本にスマホを届けようと近付いた途端、振動とともに画面に通知が表示される。
『とっても素敵なキスでした! 次が待ちきれません!』
(な……何だとォ――――ッ!?)
「あ、すんません。今持って行きます」
引き返して来た鬼本が、スマホを取り上げ画面に目を落とす。
鬼本の目元が、頬が緩み、口角が上がった。普段のヘラヘラした薄ら笑いとはまるで違う。これが、鬼本が心からの笑ったときの顔なのか。
(あんなの……僕は見たことないぞ……)
こんな表情を向ける相手が鬼本にはいるのだと思うと、何故だか僕の胸はしくしくと痛み出すのだった。