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ループ中の不遇令嬢は三分間で荷造りをする


 アンリエッタ・ベルモンドには、三分以内にやらなければならないことがあった。

 それは、この部屋にあるありったけの荷物をトランクに詰めることだ。


 アンリエッタは、今この瞬間からちょうど三分後に何が起こるか、知っている。

 なぜなら、アンリエッタは、死を迎えるたびにこの時間へのループを繰り返しているからだ。今回は、三回目のループ……すなわち、四度目の三分間だ。


「わかってはいたけど、またこの時間に戻ってきたのね。急がなきゃ」


 選ぶ必要もないほどスカスカのクローゼットから、衣服を全てひっ掴む。

 穴を開けた枕の中に詰めて隠し持っていたのは、少しのお金と、母の形見の指輪。それを服で包み、トランクの中に押し込んで蓋をした。


 必要最低限……しかし、アンリエッタが持っていたほとんど全ての品物をトランクの中に収め終わったところで、彼女は部屋の窓を開け、トランクを下の草むらに投げ捨てる。こうすることで、ここを追い出された後に荷物を回収できると気付いたのは、前回のループの時だった。


 最初のループ前は何の準備もなく放り出され、二度目の時はポケットの中に貴重品だけ入れたのだが、家を出される前に気付かれ取り上げられてしまった。三度目の時は、トランクを下に投げたものの、回収しに戻ることができなかった。


 しかし、前回のループで一度経験したためだろう、今回は、数十秒もの余裕を持って荷造りを終えることができたのだ。


「まだ少し時間がある。今回は、先に逃げさせていただくわ!」


 日も暮れて夜も深まっている。こちらを気にしている者は、さっと見渡す限り、誰もいない。


 アンリエッタは、開けた窓に身を乗り出し、躊躇なくひらりと窓枠を越えた。ドレスワンピースに土が付くのも厭わず、綺麗に受け身をとって着地する。

 この受け身の取り方は、ループ前から染みついていた技能だ。何度も地べたに這いつくばっているうちに、痛くない転び方を自然と身につけていた。


 急いでトランクを引っ掴み、アンリエッタは素早く窓の下から離れ、暗がりに潜んだ。もちろん、門番に見つかるとまずいので、正面からは出られない。

 樹木の陰に隠れてトランクを塀の上へ投げると、自身も樹木をよじ登って、塀の上へひらりと着地した。アンリエッタは昔から木登りが得意だったし、トランクはほぼ空で、見た目に反して軽いため簡単に持ち上がった。

 ただし、この塀は外からは登ることができない。そのため、前回のループでは中に侵入して荷物を回収することができなかった。だが、内側からならこうして樹木を使って塀に上がることができる。


「よし、脱出成功……おっと、今出て行ったら危ないわね」


 アンリエッタが木の枝から塀の上に飛び乗ったその時、ちょうど二階の窓が開いた。アンリエッタの義姉、マリアンヌだ。

 マリアンヌは窓の下をキョロキョロと見回すが、木の陰にうまく身を隠しているアンリエッタのことは見つけられなかったらしい。

 そのまま窓は音を立てて閉まり、カーテンが引かれた。


「……今度こそ、私は自由になる。今度こそ、生きるのよ」


 アンリエッタは、最後に屋敷を一瞥すると、寂しさを振り払って、塀から外へと飛び降りた。



***



 ベルモンド侯爵家は、建国時から王家に仕えてきた、由緒正しい家柄の貴族である。

 アンリエッタはベルモンド侯爵家の唯一の息女として、蝶よ花よと育てられてきた。父親はあまり子育てに興味がないようだったが、母親や使用人たちの愛情を一身に受けて、素直で純真な令嬢に育った。


 また、アンリエッタの母親は隣国の王家に連なる家系から嫁いできた、生粋のお嬢様だった。彼女に完璧な礼儀作法と、隣国の言葉や文化を教えてくれたのは、アンリエッタの母親だ。


 更に恵まれたことに、アンリエッタは、誰もが羨む美貌を持っていた。

 ルビーのような紅い髪と、エメラルドの瞳。白磁の肌はシミ一つなく透明感があり、頭からつま先に至るまで、その全ての行動に、気品が溢れる。


 美しく気高いアンリエッタと、王太子エドワードとの婚約が決まったのは、七年ほど前――アンリエッタとエドワードが共に十歳の時だった。

 この婚約は大国である隣国の王家との関係性を重んじた結果だが、十歳にして誰もが見惚れるほどの美貌と気品を兼ね備えるアンリエッタと、輝く金髪にサファイアの瞳を持つ秀麗な王太子――二人が並ぶと、まさに絵物語から飛び出してきたかのように、場が華やいだ。


 純真なアンリエッタは、苦しいはずの王太子妃教育にも、「新しいことを学べる」と嬉々として励んだ。

 アンリエッタはこの時、何不自由なく、輝きに満ちた世界を謳歌していた。



 ――アンリエッタの世界に影が差したのは、五年前のことだった。

 母親が、病気で亡くなったのだ。


 当時十二歳だったアンリエッタは悲嘆に暮れていたが、父親はそうでもなかったらしい。


 アンリエッタの父、ベルモンド侯爵が後妻を屋敷に連れてきたのは、なんと喪が明けた翌日のことだった。

 それも、信じられないことに、その後妻のお腹はすっかり膨らんでいる。

 おそらくアンリエッタの母が生きていた頃から妊娠していたのだろうと思うが、アンリエッタは考えないようにした。


 また、後妻には連れ子が一人いた。アンリエッタには、突然、同い年の姉ができた。

 義姉となったマリアンヌは、義母と同じ茶色の髪と、何故かアンリエッタやベルモンド侯爵とよく似たエメラルドの瞳を持っていた。マリアンヌは、美人のアンリエッタと違って、庇護欲を誘うような可愛らしい顔立ちである。

 マリアンヌは、目の色だけでなく、鼻の形もベルモンド侯爵とそっくりだった。だが、アンリエッタはやはり気付かなかったふりをした。


 明るく輝きに満ちていたベルモンド侯爵家が変わってしまったのは、それからだった。



 義母と義姉が屋敷に来てから、ベルモンド侯爵はすっかり変わってしまった。いや、こちらが本当の姿だったのかもしれない。

 妊娠中の義母をいたわり、マリアンヌには偽りのない笑顔を見せる。義母やマリアンヌがおねだりすれば高価な物でも迷わず買い与えた。


 アンリエッタも上質なドレスを何着も持っていたが、それは王太子エドワードの婚約者として失礼のないようにするため、侯爵家の予算に組み込まれていた分から購入していた。

 それ以外に欲しいものがなかったわけではないが、お願いをしてもいつも却下されていたため、アンリエッタは父親の変わりように心底驚き、悲しくなった。


 アンリエッタも、アンリエッタの母親も、最初からベルモンド侯爵に愛されてなどいなかったのだ。


 そんな中でも、事情を知る使用人たちだけは、アンリエッタを可愛がってくれた。

 しかし、無情にも、屋敷の使用人は徐々に入れ替わってゆくことになる。義母と義姉と――もしかしたら侯爵自身も関わっていたのかもしれない。


 アンリエッタの味方をしてくれていた使用人は、一人、また一人と屋敷を去って行った。

 去って行った使用人たちは、みな悔しそうな表情をしていたのが、アンリエッタには印象的だった。



 一方で、婚約者であるエドワードとの関係は、全く変わる気配がない。


 婚約して二年の月日が経っていたが、いつも当たり障りのない話をして、形式上定められた婚約者以上のことは、一度もなかった。

 指を乗せるだけのエスコートや、婚約者としての気遣いは見せてくれるものの、手を繋いで歩いたり、手の甲にキスをしたり、そういった愛情表現は一切ない。

 とはいえ二人はまだ十二歳。これから少しずつ親睦が深まっていけば良いと、アンリエッタは思っていた。


 けれど、エドワードとの関係が変わることは、その後もなかった。互いに笑顔の仮面を被り、本心をさらけ出すこともない。

 仲は悪くもなかったけれど、良いとも言えない関係が続いていた。そう、あの時までは――。



***



 ベルモンド侯爵家からの脱出に成功したアンリエッタは、市街地の方へと向かって歩き出す。


 一度目の時は、侯爵家の門前で泣き崩れ動けずにいたら、義母に指示された使用人に馬に乗せられ、知らない森の中に捨てられてループした。

 二度目の時は水を求めて河原に行ったところでごろつきに絡まれ、着衣のまま川へ飛び込み、ループ。

 三度目は、荷物を回収しようと屋敷の周囲をうろついていたら、不審者と間違われて衛兵に捕まり、腕から無理やり抜け出したところに、ちょうど運悪く馬が通りかかってループした。


 だからアンリエッタは、不審な態度を取らないように堂々と歩き、一秒でも早く人の多い市街地へと入るつもりである。

 市街地に着けば、持っているお金で一日ぐらいは宿に泊まれるだろう。朝になったら住み込みで働ける仕事を探す予定だった。

 形見の指輪は、できれば手元に残しておきたいが、どうしても困った時に質入れするつもりだ。


 アンリエッタは、今度こそ無事に市街地へ辿り着くことができた。

 しかし、まだ気を緩めることはできなかった。彼女は宿の場所も、泊まり方も知らなかったのだ。


「どうしましょう、困ったわ」


 アンリエッタは途方に暮れた。閉店準備を始めたブティックの、ショーウィンドウの横にトランクを置き、その上に腰掛ける。

 ここで休んでいてもどうにもならないのはわかっていたが、どの道へ行けば宿屋があるのか、わからない。


 そうしてため息をついているアンリエッタに、声をかけてきた者がいた。


「お姉さん、いくら?」

「え?」


 アンリエッタは、男が何と言ったのか、うまく聞き取れなかった。

 中年で、腹の出た男だ。アンリエッタが男を見つめながら首を傾げると、男は下卑た笑みを浮かべる。


「なあ、俺と宿へ行かねえか?」

「まあ、あなたは宿屋の場所を知っているのね! 案内して下さるの?」

「おう。良いとこ知ってるから、ついてきな」


 世間知らずのアンリエッタは、男の言葉の意味も知らず、「悩みすぎて声に出ていたかしら」などと首を傾げつつ立ち上がった。


 ――その時。

 横から突然、中年男とアンリエッタの間に立ちはだかる者があった。


「――おい。彼女は私の連れだ。ちょっかいを出すな」


 月を背に立つその者の顔は、街灯の陰に隠れて、アンリエッタからはよく見えない。声からしたら、若い男のようだ。

 アンリエッタは一瞬、聞いたことのある声だと思ったが、彼がこんな所にいるわけがないと自ら否定した。


「あ? 俺が先に――」

「先程はぐれてしまったんだ。すまない、待たせたな」

「え、えっと」


 アンリエッタは、若い男の顔をよく見ようと覗き込む。そしてその瞬間、若い男に手を取られて、驚きのあまり声を失った。


「――!」


 エスコートとも違う、ぎゅっと手を握られる感触。

 アンリエッタはこうして手を繋がれるのは初めてだったが、包み込むような大きな手と、その力が存外優しいことに、ますます驚いた。


「さあ、行くぞ。――アン」

「え――」


 男が体の向きを変えたことで、アンリエッタはようやくその顔を確かめることができた。そこには幸か不幸か、アンリエッタの予想した通りの顔があり、彼女はますます混乱する。

 アンリエッタをアンと呼んだ男は、空いている右手で、彼女のトランクを持ち上げた。


「そ、それ、私が持ちますわ」

「いいから。早く行くぞ」


 男はアンリエッタを連れて、早足で歩き出した。早歩きだが、アンリエッタがなんとかついて行ける速度だし、手を握る力も強めない。

 後ろから、「ちっ、なんだよ」という声が聞こえてきたが、中年男は早々に諦めたのだろう、追ってくる気配もなさそうだ。


 周りに人がいないところまで来て、ようやく男は足を止め、手を解いた。アンリエッタが逃げないようにだろう、右手には相変わらずトランクが握られている。

 アンリエッタは、また荷物を失って路頭に迷うことになるのではないかとヒヤヒヤしていた。


 男は、ゆったりと、しかし鋭さを含んだ声で、アンリエッタに問いかけた。


「――で、アンリエッタは、どうしてあんな所にいたのかな? それも、こんな大荷物に、土で汚れたワンピースで」

「……みっともない所をお見せしてしまい、申し訳ございません。エドワード殿下」


 アンリエッタは片足を下げ腰を落として、冷たく見下ろす婚約者に、優雅なカーテシーをしたのだった。



「……楽にして良い」


 その言葉に少し遅れて、アンリエッタはカーテシーを解く。


「ありがとう存じます」


 アンリエッタは、目の前に立つ婚約者を見上げる。エドワードはお忍び用の服を着ていて、普段なら月光に煌めく金髪も、目深に被った帽子にほとんど隠れている。

 正面からアンリエッタを見据えているエドワードの顔は険しく、冷たいサファイアブルーの瞳には、まるで穢らわしいものでも見るかのような嫌悪感が滲んでいた。


「あの、殿下……」

「――ひとまず、馬車へ。ここは人目につく」


 行きたくない、とアンリエッタが口にするよりも早く、エドワードは彼女のトランクを持ったまま、先に歩いて行ってしまった。


「殿下、トランクを返していただけませんか? 大切なものが入っているのです」

「駄目だ。これを返したら君は私から逃げるのだろう」

「そんなこと……」


 エドワードは、アンリエッタの思惑を見透かしているかのように、彼女の方を振り返りもせずぴしゃりと言い放つ。

 それ以上会話を続けることも許されず、アンリエッタはエドワードの後へと続いて、黙々と歩を進めるしかなかった。



***



 アンリエッタとエドワードの関係が変わり始めたのは、義母とマリアンヌが侯爵家に来た翌年ごろのことだった。

 きっかけは、エドワードがアンリエッタに贈った一着のドレスである。


 その日、アンリエッタは、エドワードと観劇に行く約束をしていた。

 アンリエッタは、エドワードから誕生日に贈られたドレスを身につけて出かける予定で、エドワードもそれを期待しての観劇の誘いだった。


 しかし。


「あら? ドレスが……ない?」


 使用人と共にクローゼットの中を探すが、エドワードに贈られたドレスが見当たらない。人を呼んで部屋中、屋敷中を探したものの、結局ドレスは見つからなかった。


「約束の時間に遅れてしまうわ。次に殿下からお誘いいただく機会があったら、その時に着ましょう」


 そうしてアンリエッタは、仕方なく別のドレスでエドワードと会うことにした。

 エドワードは会った瞬間に不満そうな顔を見せたものの、何事もなくその日は終わる。


 結局それ以降も、アンリエッタは、エドワードから贈られたドレスに袖を通すことは叶わなかった。



 次に事件が起きたのは、ベルモンド侯爵家で開かれた茶会だった。多数の貴族が集まる席で、王太子エドワードも招待されている。

 侯爵はゲストを、アンリエッタは婚約者のエドワードを出迎えるため、玄関ポーチで到着を待っていた。侯爵の妻は、前年に生まれた赤子がなかなか泣きやまず、マリアンヌと共に直接会場へ行くことになった。


 アンリエッタはエドワードに一通りの挨拶を済ませると、二人で共に茶会の会場へと向かった。そこで、アンリエッタとエドワードは、信じられないものを見る。


 なんと、義姉マリアンヌが着用していたのは、アンリエッタが無くしたはずのもの――エドワードがアンリエッタに贈った、ブルーのドレスだったのだ。


「え……お義姉様、どうして?」

「マリアンヌ嬢。そのドレスは――」

「王太子殿下、ごきげんよう。えへへ、どうですか? 義妹よりも似合うでしょう?」

「ちょっと、お義姉様、不敬ですわよ」


 王太子の話を遮って、自分から話をするなんて、不敬にも程がある。エドワードはピクリと眉を動かしたが、寛容にも、話を続けることにしたようだ。


「……いや、アンリエッタがそれを着ているところは、一度も見たことがないが」

「まあ、義妹がそんな失礼なことを? このドレス、デザインが好みじゃないからって、私にくれたんですよ。こんなに素敵なのに」


 アンリエッタは、義姉の言葉に衝撃を受けた。

 デザインが好みでないなどと、口にしたことはおろか、一度も思ったことはない。むしろ、ふわりと裾が広がるシフォン生地のドレスは、アンリエッタが最も好むデザインだ。


「……その話は本当か? アンリエッタ」

「本当ですよ! 現に、義妹は何にも言わないでしょう?」


 二人揃って、アンリエッタを見る。アンリエッタはあまりのショックに言葉も出ず、首をふるふると横に振ると、(きびす)を返し会場を出ていってしまったのだった。



 その茶会をきっかけに、エドワードとアンリエッタの関係は冷え込んでいった。


 エドワードは後日、アンリエッタに尋ねた。「ドレスの件は真実か」と。

 アンリエッタは、おそらくマリアンヌがドレスを盗んだのだろうと思っていたが、確証はないためエドワードに話さなかった。

 アンリエッタは、ただ「無くした」「いつ無くなったのかわからない」の一点張り。エドワードはそれ以上深く尋ねることをしなかった。


 帰宅してからアンリエッタは、「ドレスはとても気に入っていた。嬉しかった」と伝えればよかったと後悔した。ドレスを奪われたことが悔しくて、エドワードが向ける疑念の眼差しが悲しくて、そこまで気が回らなかったのだ。


 それからというもの、エドワードが侯爵家を訪れた際は、必ずマリアンヌも同席するようになった。


 婚約者と過ごす時間を邪魔しないでほしいと訴えたら、マリアンヌはわざとらしく涙を流し、エドワードはハンカチを渡して慰めた。

 マリアンヌは頬を染め微笑み、エドワードも「泣き止んでよかった」とまんざらでもなさそうに笑う。憐れみを多分に含んだ優しげな笑顔は、アンリエッタは一度も見たことのない、慈愛に満ちたものだった。


 涙を人に見せたくないアンリエッタは、またもや途中で逃げ出してしまった。

 この頃はもう毎回そんな調子で、エドワードがアンリエッタに会いに来ているのか、マリアンヌに会いに来ているのか、アンリエッタには皆目わからなかった。


 それ以降、アンリエッタの私室からは、ドレスやアクセサリーが少しずつ消えていった。マリアンヌが着けているのを見るのは大抵一度か二度だが、その後アンリエッタの元に戻ってくることもない。


 社交に呼ばれる回数も目に見えて減り、アンリエッタはいつか来るであろう終わりを予感した。

 (きた)る時のためにも、アンリエッタは頭と体を鍛えておく必要を感じた。今はまだ取りやめになる気配のない王太子妃教育を利用し、より一層勉学に励み、体を鍛えるために護身術や剣術の指南も増やしてもらった。


 父親も頼れない。味方だった使用人は、もう誰もいない。婚約者は、義姉に夢中だ。

 アンリエッタは、もう、人に頼ることを諦めた。かわりに、いつか自らの足で歩き出す日を夢見るようになった。



 そしてついに、エドワードとの関係は終わりを迎えた。

 前回までのループで、巻き戻りの瞬間から三分経ったのち、侯爵から三度繰り返された話だ。


「エドワード殿下とマリアンヌの婚約が決まった。お前がここにいる価値はもうない。親子の縁も解消するから、速やかにこの屋敷を出て行け――屋敷の物を持ち出すことは一切禁ずる」



***



 考え事に耽っていたら、いつの間にか馬車に到着していた。

 いつもの大きく立派な馬車ではなく、お忍び用の、王家の紋章を隠した馬車である。


「さあ、乗るんだ」


 冷たい声で促され、アンリエッタは蒼白な顔で馬車へと乗り込む。続いてエドワードも馬車に乗り込み、彼女の向かいに座った。トランクはエドワードの隣に置かれていて、アンリエッタが手を伸ばすことはできそうにない。


「出せ」


 エドワードが御者に短く指示すると、馬車はゆるやかに動き出す。


「殿下……どちらへ?」


 ゆるやかに動き出した馬車に、アンリエッタは焦った。

 このままだと、おそらく王宮かベルモンド侯爵家に連れて行かれてしまう。特に、向かっている先がベルモンド侯爵家だったら最悪だ。


「王宮に決まっているだろう」


 エドワードの返答に、アンリエッタは、王宮なら侯爵家に連絡がいくまで僅かに猶予があるかもしれないと、少しだけ安堵した。


「……それで?」

「それで、とは」

「なぜ、あの場所にいた?」


 エドワードは、アンリエッタを見据えて厳しく問いかけた。怒っているのか不機嫌なのか。エドワードの顔は変わらず秀麗なのに、アンリエッタは彼の表情が怖いと思った。


「……私、勘当され……」


 アンリエッタは、言おうとして途中で口をつぐんだ。よくよく考えたら、今回のループではまだアンリエッタは勘当されていない。直接父と話していないからだ。


「……どうした?」

「いえ、言っても信じていただけないでしょう。ですから、お話しすることはございません」


 エドワードは、ギュッと眉をひそめた。冷たい青の瞳は、更に鋭さを増す。


 アンリエッタは、しかし、このまま黙っているつもりもなかった。

 おそらく今回もまた、どこかで死を迎えて、ループしてしまうのだろう。そうしたらアンリエッタがここで聞いたことは、次の時には白紙に戻る。

 エドワードの行動を確かめておけば、次回の行動計画も立てやすくなるというものだ。


「殿下、お尋ねしてもよろしいですか?」

「なんだ、申せ」

「殿下は、市街地で何をされていたのですか? 平民の服をお召しになって」

「理由は二つ。一つは、君がトランクを置いて座っていたブティックに用があった」


 エドワードは、マリアンヌへの贈り物でも見繕っていたのだろうか。……いや、それなら平民のふりをする必要はないはず。

 エドワードは何かを隠していると、アンリエッタは直感した。


「もう一つは、街の警備だ。――そして、君がのこのこと犯罪者について行こうとしているところを目撃した」

「は、犯罪者?」

「そうだ。予想はしていたが、君は、自分の身が危険だったことも理解していなかったのか?」


 予想外の言葉に、アンリエッタは目を丸くした。エドワードは彼女を見て、鋭さを少し和らげる。


「近頃市街地で、女性を宿に連れ込み、無体を働いた上で殺害、金品を強奪する事件が多発している。先程の男がその犯人かは不明だが、今頃は私の護衛騎士が捕まえて取り調べを行っているところだろう」

「や、宿に……? 私、そんな惨い目に遭うところだったのですか」

「そうだ。夜の街は、世間知らずのお嬢様が一人で歩いていて良い場所ではない」


 過去三回のループよりも酷い終わりが待っていたかもしれないことに、アンリエッタは今更ながら戦慄する。


「では、殿下は私を助けて下さったのですね。ありがとうございます」

「当然だ。婚約者だからな」

「……婚約者……?」


 アンリエッタは、エドワードの返答に違和感を覚えた。

 過去三回のループでは、この夜にはすでにマリアンヌとの婚約が決まっていたはずだ。少なくとも、ベルモンド侯爵はそう言っていたし、三回とも同じ文言を聞かされた。だから、アンリエッタは告げられた言葉を一言一句間違いなく覚えている。


「何かおかしいか?」

「いえ、殿下は義姉のマリアンヌと婚約を結ばれたと聞きましたので」

「……何?」

「私はそれで、勘――いえ、悲しくなって家出をしてきたのですわ」


 今度は、アンリエッタの言葉にエドワードが目を丸くする番だった。アンリエッタは、今の私の言葉に驚く要素があったかしらと不審に思いながらも、言うべきことを告げる。


「ですから、ベルモンド侯爵家には戻りません。私は仕事を探して、市井で生きてゆきたいのです。それから……」


 アンリエッタは、そこで喉を少しだけ詰まらせた。冷たい態度を取られてはいたものの、やはりずっとこの人の妻になるつもりで生きてきたのだから、多少は悲しさや寂しさがあるらしい。


「――それから、マリアンヌ()とのご婚約、おめでとうございます」


 アンリエッタはそう言い切って、目を伏せ目礼した。こうしていれば感情の揺れを見られなくて済んで、好都合である。


「――違う」


 エドワードは、今までで一番冷たい声を発した。アンリエッタは、びくりと肩を揺らしたが、目は伏せたまま。


「顔を上げろ、アンリエッタ」

「……はい」


 目を上げたアンリエッタが見たエドワードの顔に浮かんでいたのは、彼女が予想していたどの表情とも違っていた。

 ――この上なく優しい、慈愛に満ちた微笑み。

 目の前にいるのは愛しいマリアンヌではないのに、声はすごく冷たいのに。エドワードの表情は、アンリエッタにとって、ひどくちぐはぐなものに感じられた。


「君がどうして勘違いをしたのか知らないが、訂正しておこう。私と君との婚約は解消されていないし、マリアンヌ嬢との婚約も決定していない」

「……え……? 嘘ですわ、だって」

「君は、婚約破棄の手続きを取った記憶があるか? 私にはない」


 確かに、エドワードの言った通りだった。婚約破棄にはちゃんとした手続きが必要なはずだが、関係する書類を見た覚えも、ましてやサインした覚えもない。


「では、私……」

「そうだ。君は紛れもなく、今も私の婚約者だ」


 エドワードは、混乱するアンリエッタの手を取った。

 ちぐはぐだった微笑みに、先程よりも優しくなった声色が、ぴたりと合致する。


「アンリエッタ・ベルモンド。私と結婚してくれ」


 眉目秀麗な王太子は、そう言ってアンリエッタの手の甲に、そっと口づけを落とす。

 はじめて触れる婚約者の愛情表現に、アンリエッタは戸惑うばかりだった。


 甘い微笑みを浮かべる婚約者からの、改めての求婚に、アンリエッタは――


「お返事は……少しだけ、お待ちいただけますか」


 おそるおそる、そう答えた。

 エドワードの表情が、曇ってゆく。


 アンリエッタは、今はエドワードとの結婚よりも、とにかく真実を知りたかった。

 ベルモンド侯爵が、どうしてエドワードとマリアンヌの婚約を(うそぶ)いたのか。

 なぜアンリエッタと縁を切り、屋敷から追い出したのか。

 そして――エドワードは、マリアンヌを愛していたのではなかったのか。


「……理由を尋ねてもよいか」


 エドワードはアンリエッタの手を離し、問いかけた。冷たく装った声の奥側が震えていることに、エドワード自身は気が付かなかった。


「私には、自分の身の安全のために、お返事をする前に確かめなくてはならないことがあります。ですから、殿下のお答えを伺ってから、先程のお返事をさせていただきたいのです」

「……わかった。君が確かめたいこととは、何だ」

「私が今から言うことは、推論です。ですから、途中で口を挟まず、最後まで聞いてからお答えをいただきたいのです」


 アンリエッタは、そう前置きをして話し始めた。


「エドワード殿下は、マリアンヌを愛しているのでしょう? けれど、隣国との関係から、私との婚約を解消することができなかった」


 エドワードの眉がぴくりと動くが、口を挟もうとはしない。約束を守るつもりのようだ。


「だから、殿下は父の前で、マリアンヌと婚約すると約束をした。殿下の確実な後ろ盾を得た父は、私を勘当し平民に落とした」


 エドワードのこめかみに、青筋が浮かび始めた。だが、アンリエッタはそれに気付かない。


「私が身分を失えば、婚約破棄の手続きをとらなくとも殿下との婚姻は不可能になる。それか……最も好都合なのは、私が死ぬこと。だから――」

「有り得ない」


 エドワードはアンリエッタとの約束を破り、話を遮った。その声は、隠しようもなく怒りに震えている。

 エドワードは、内窓を開けて、御者に命令を出した。


「行き先を変更してくれ。騎士の詰所を経由し、目的地はベルモンド侯爵家だ」

「殿下、どうして……!」

「平気で嘘をつくような人間には、虫唾が走る。適切な裁きを受けてもらうぞ」


 アンリエッタは、危険を冒して踏み込んだことを言ったにも関わらず、推論に対する答えを得ることができなかった。しかも、エドワードに嘘つきだと断定されて、待っているのは『適切な裁き』だ。

 実際、今回のループでは、アンリエッタは勘当されていないし、マリアンヌとエドワードの婚約話も耳にしなかった。もしかしたら、ループを繰り返すうちに、前回までとは状況にズレが生じてきているのかもしれない。


 ならば、今回のループでは――まさに、アンリエッタが、嘘つきだったのだ。


「――君は私のものだ。逃してなるものか」


 アンリエッタは絶望に打ちひしがれており、エドワードが小さく小さく呟いた言葉は、耳に届いてはいなかった。





 詰所に寄り道をして、数人の騎士を供につけたエドワードは、先触れもなくベルモンド侯爵家を訪れた。

 自身が騎士でもあるエドワードは、詰所で騎士用の軽装に着替えを済ませており、(かたわ)らには全身鎧を着た騎士を二人携えている。

 エドワードの近くに、アンリエッタの姿は見えなかった。


「これは王太子殿下。夜分にどうされたのですか」

「失礼。中に入ってもよいか」

「え、ええ。おいそこの、急いで支度を――」

「構わん。すぐに済む」


 エドワードは屋敷の正門と通用門に騎士を二人ずつ立たせ、玄関にも一人騎士を配置する。傍らの重装兵二人と共にベルモンド侯爵家の中に入ると、サロンに侯爵だけを呼びつけ、使用人には退出させた。

 全身鎧の重装兵は威圧感があり、ベルモンド侯爵は身がすくんだ。


「ベルモンド侯爵、王太子として命ずる。これから私はいくつか質問をする。すべて正直に答えよ」

「は、はい」


 エドワードは、王太子として侯爵に命令した。傍らの重装兵のうち一人が兜を跳ね上げ、記録用のノートを広げる。

 王太子命令が出ているため、このノートは正式な記録として残され、裁判になった際に利用されたり、嘘があると認められたら拘束の上取り調べをされる場合がある。


「ところで、その大切な話題に入る前にひとつ聞くが……アンリエッタは在宅か?」

「い、いえ」

「なら、どこにいる?」

「アンリエッタは……」


 侯爵は、一度言葉を切った。何と答えれば利となるのか、頭の中で、計算が行われているのだ。

 ――エドワードは「大切な話題に入る前に」と言ったから、アンリエッタに関する話は本題ではないのだろう。実際、騎士もまだ記録をつけていないようだ。なら、まだ嘘をついても問題はない。


 一瞬で計算を済ませたベルモンド侯爵は、王太子の『大切な質問』に対して、嘘をついてしまった。


「アンリエッタは――死にました」

「……アンリエッタが、死んだ?」

「はい。家出をして戻らないので探しに出たのですが、遺体で見つかりました。事故だったようです」

「……ほう。それは残念だ。では、アンリエッタとの婚約は白紙になるのか?」

「ええ。ですから、殿下におかれましてはマリアンヌとの婚約を――」


 その時、カリカリとペンを走らせる音が聞こえ、ベルモンド侯爵はギョッと目を見開いた。まだ、『大切な話題』に入る前ではなかったのか。


「侯爵。知っていると思うが、この会話は正式な記録として残るぞ。嘘が露見すれば、裁判で不利になる他、身柄を拘束する権利が生じる」

「ぞ、存じ上げておりますが、今の質問は……約束が違うのでは」

「私は、大切な話題に入る前にひとつ(・・・)聞くと告げた。そして、アンリエッタは在宅かと質問した」


 侯爵は、アンリエッタを死んだことにして、マリアンヌとエドワードとの縁談を確実なものにしようと画策していた。

 それに、行方不明は事実だ。こんな夜分に女一人で、無事に済むはずがないと確信していた。


 だが、ここに来てようやく、侯爵は自身の失態を悟った。


 エドワードは兜を跳ね上げていない方の騎士を見遣り、大きく頷く。その合図で、騎士は兜に手をかけた。

 騎士が兜を脱ぐと、ルビーのような紅い髪がふわりと広がる。緑色の瞳が、汗を垂らし始めた父親を見据えた。


「アンリエッタ……!」

「……お父様……」


 ベルモンド侯爵も、まさか全身鎧の中身がアンリエッタだとは、思いもしなかっただろう。それはそうだ、普通の令嬢には、全身鎧も、鉄兜も、重くて身につけることができない。

 だが、剣術や護身術で鍛え抜いていたアンリエッタは、問題なくそれらを身につけることができたのだ。


「侯爵……残念だよ」


 エドワードは低く呟き、すっと手を挙げる。

 それを合図に、先程まで記録を取っていた騎士が動き、手早く侯爵を拘束したのだった。





 その後、ベルモンド侯爵は拘束、連行された。

 侯爵邸はそのまま封鎖され、侯爵夫人とマリアンヌも、事情聴取のため屋敷内に軟禁された。


 王太子に対してアンリエッタの死を偽装しようとした、という軽い罪で拘束したものの、叩いてみると、嫌という程ほこりが出てきた。

 もちろん、アンリエッタ以外のことも含めてだ。中には、領地経営に関する、大きな不正も含まれている。爵位と領地の返上は、免れないだろう。


 また、裏社会に関する何がしかに、夫人と一部の使用人が関与していたことも判明した。ブティックの前でアンリエッタに声をかけてきた中年男も、夫人の関係者だ。

 もはや誰も知る由がないが、一度目のループでアンリエッタを森に捨てた使用人も、二度目のループで彼女を襲ったごろつきも、三度目のループの暴れ馬も――さらにはアンリエッタの実母を毒殺したのも、同じく夫人の関係者だった。

 今、夫人は侯爵と二人、仲良く牢の中である。


 マリアンヌについては、窃盗罪が適用される。ただしそれは、エドワードに対する恋心と、アンリエッタへの嫉妬心が引き起こしたものであって、侯爵家の不正には関わっていなかった。

 被害者であるアンリエッタが強い裁きを望んでいないので、謹慎処分程度に収まるだろう。

 だが、贅沢な生活が当たり前だったマリアンヌにとって、質素な暮らしは苦痛を伴うことに違いない。


 まもなく五歳になる長男には、一代貴族として、ベルモンド侯爵家の屋敷だけが与えられた。彼はこれから、ベルモンド侯爵の犯した罪を償っていくことになる。

 彼自身は何もしていないのに、あまりにも酷な運命だ。だが、姉のマリアンヌと、王宮から派遣されることとなった官吏が彼を支えてくれるはずである。アンリエッタも、彼が本当に困った時は、元家族として手助けをするつもりでいた。


 アンリエッタは、ベルモンド侯爵家の籍を抜け、母方の縁戚に養子縁組をしてもらうこととなった。

 エドワードとの婚約は、アンリエッタの姓が変わっても、依然として継続中だ。というか、婚約の継続も養子縁組の条件に含めて手続きを取らせるという、徹底した執着具合である。



「――それにしても、君の『筋書き』は見事だったな。まさか侯爵が、本当にアンリエッタを排除し、マリアンヌ嬢と婚約を結ぼうとしていたとは」

「……あの、私のことは罰しないのですか?」


 アンリエッタの推論を、エドワードは『嘘』ではなく『筋書き』として受け取った。アンリエッタは、嘘が嫌いと言ったエドワードが、彼女に罰を与えないことが不思議だった。


「ああ。君は悪いことを何一つしていないし、嘘もつかなかっただろう。話したのは、ただの推論――いや、『筋書き』に過ぎない。……ああ、だが、君は『筋書き』の中で一つだけ気に食わないことを言ったな」

「えっと……それは、何のことでしょう……?」


 エドワードは、口元を引き結び、眉に力を込めた。だが、その目は変わらず輝いている。


「――口にするのも不快だから、言わない」

「!! そ、それは、大変申し訳ございませんでした!」


 エドワードの言う、『気に食わないこと』。それは、アンリエッタの尋ねたこの言葉だ。


 ――「エドワード殿下は、マリアンヌを愛しているのでしょう?」



***



 エドワードは、以前からアンリエッタだけを愛していた。

 ただし最初は、婚約者としての責務から一緒にいたに過ぎなかった。


 エドワードの心が変わったのは、アンリエッタにドレスを贈った日のことだ。

 普段は感情を大きく動かすことのないアンリエッタが、この上なく嬉しそうに笑ったのである。まるで花が開くように、目をまん丸にして、頬をピンク色に染めて。

 その時アンリエッタが見せた極上の笑顔を、エドワードは、一生涯忘れないだろう。


 アンリエッタとは何度も会っていたから、彼女が好む素材やデザインは把握していた。だから、彼女が喜んでいるのを見た時、エドワードは予想が当たっていたことを嬉しく思った。

 目を輝かせる彼女を見ていると、胸に灯がともったように温かな気持ちになる。エドワードは、また彼女の喜ぶ顔が見たくて、アンリエッタの好きそうな演目を調べ、観劇に誘ったのだ。


 だが、観劇の日にエドワードがアンリエッタを迎えに行くと、彼女はそのドレスを着ていなかった。エドワードはそれを疑問に思う。だが、今日は気分ではなかったのだろうと、深く考えなかった。


 その日の演目は、予想通りアンリエッタの好きな演目だった。アンリエッタは熱心に舞台を眺めていたが、時折、ふっとドレスに目を落として思い悩むようなそぶりを見せている。


 何かある、エドワードはそう直感した。

 しかし、アンリエッタに尋ねても、はっきりとした答えは返ってこなかった。

 ――この時アンリエッタは、自分の不注意でドレスを紛失したと思っており、恥ずかしさと申し訳なさからエドワードに打ち明けることができなかったのである。



 ベルモンド侯爵家の茶会に呼ばれた時、エドワードはブルーのドレスを纏うマリアンヌを見て、すぐに「これか」と思った。マリアンヌは、アンリエッタと違ってとても非常識な令嬢だった。

 ――デザインが好みではない? 誰がどう見ても、あの時のアンリエッタは心から喜んでいた。

 それに、アンリエッタの悲しそうな表情を見たら、どちらが嘘をついているのかなど、火を見るよりも明らかだ。


 エドワードは、アンリエッタが今度こそ話してくれるだろうと、真偽を尋ねた。けれど、彼女は悲しげに首を振って、出て行ってしまう。

 エドワードは他の貴族にも挨拶をしなくてはならなかったため、アンリエッタをフォローできなかったのが、ずっと気がかりだった。



 エドワードは、後日、アンリエッタにドレスの件について改めて尋ねた。しかし彼女は、それでも何も言ってはくれない。

 エドワードは、これ以上深入りするのを諦めた。

 


 その後は大変だった。


 アンリエッタに会いに行っても、毎回お邪魔虫がくっついてくる。

 嘘を並べ立て、無闇に人の婚約者に触れ、偽りの涙を流すマリアンヌは、エドワードにとって、ただ滑稽で哀れだった。


 自ら知識や技術を得ようともしない、外見だけの――いや、エドワードからしたら外見すらアンリエッタに劣るが――中身のない空虚な令嬢は、話していても何一つ楽しくない。

 エドワードはその内心を隠すため、常に笑顔を作っていたが、そこに憐憫の情が乗るのは仕方のないことであった。


 マリアンヌと話すようになったことで、エドワードは、アンリエッタがどれほど努力家で気高く、素晴らしい女性なのか再認識した。

 ただし、アンリエッタは気高いがゆえに、他者に助けを求めない。気高いがゆえに、義姉や婚約者に対して強く何かを主張することができない。

 エドワードは、アンリエッタに直接頼ってもらうのではなく、陰で『義妹いびり』の証拠を集めることに決めた。


 証拠集めという理由もあって、エドワードがマリアンヌと過ごす時間は増え、逆にアンリエッタとの時間は徐々に減って行く。

 アンリエッタも王太子妃教育にかなりの時間を割くようになり、社交の際も、侯爵が「アンリエッタは病気だ」と詐称し、かわりにマリアンヌを連れてくるようになった。



 『義妹いびり』の証拠を集めているうちに、侯爵家の大きな嘘も、明らかになった。

 ――横領。二重帳簿。

 ベルモンド侯爵は、妻や息子やマリアンヌに、高価なものをどんどん買い与えていた。その資金は、侯爵家が自分たちで自由に使える分を優に超えていたのだ。


 また、マリアンヌがアンリエッタから奪ったドレスやアクセサリーも、マリアンヌが飽きるとすぐさま売りに出していた。その中には、エドワードがアンリエッタに贈ったものも含まれている。

 貴族街で売っては足がつくため、侯爵夫人の持つ伝手をたどって、平民街にあるブティックへ売り払われていた。


 そして、満月の夜。

 エドワードは、ブティックの場所を突き止めた。本当にアンリエッタのドレスが売られているか確かめるために店を訪れ、帰り際に少し、街の見回りをしようと考えていた。

 このところ、物騒な噂をよく耳にする。もちろん護衛騎士を近くに待機させはするが、王太子としても一騎士としても看過できず、自分の目で街の様子を探りたかった。


 平民街にしては小綺麗なブティックには、アンリエッタのドレスやアクセサリーが、いくつも並んでいた。その中には、エドワードがアンリエッタに贈ったものもある。

 ドレスは平民には必要のないもののため売れることはないが、店頭ディスプレイとして役に立つ。役目を終えたら、いずれ貴族街の端にある系列店に持っていくのだそうだ。


 エドワードは、怒りを抑えつつ、「また来る」と言い残してブティックを立ち去った。


 その時だった。

 ブティックの横で、アンリエッタが、中年の男に絡まれているのを見つけたのは――。



***



 あたたかな春の陽射しが、柔らかく差し込む午後のひととき。

 美しい花に彩られた王宮の庭園を散策していた二人だが、エドワードは、一本の樹木の前で突然立ち止まる。

 アンリエッタも、すぐに足を止めた。

 薄桃色の花弁が、風に散らされ二人の周りをひらひらと舞う。


「ところで、アンリエッタ。返事をまだもらっていなかったな」

「あ……」


 アンリエッタは、馬車の中でのエドワードの求婚に、まだ応えていなかった。確かめたいことがあるからと、返事を保留にしていたのだ。


「もう、確かめたいことというのは、済んだのか」

「……はい」

「ならば、もう一度」


 エドワードは、アンリエッタの前に跪いた。

 ざあ、と音を立てて風が吹き、薄桃色の花吹雪が、二人を包み込む。


「アンリエッタ。私と結婚してくれ」


 二人きりの世界で、煌めく金髪が風に揺れ、サファイアの瞳は真摯に、真っ直ぐにアンリエッタを捉える。

 アンリエッタは、二度目の求婚に、エメラルドの瞳を潤ませた。紅い髪を風に柔らかく靡かせて、彼女は、真心を込めて返事をした。


「……もう少し。もう少しだけ、お待ちいただけますか」


 エドワードは、表情を失ってゆく。風が止み、薄桃色の花弁も、空しく地面に落ちていった。

 エドワードは、隠しようもない震え声で、アンリエッタに尋ねる。


「……理由は。理由はなんだ」

「私が……弱いからです」


 義姉にさえ言い返せない、その心の弱さが、アンリエッタは不安だった。これほど弱くては、王太子妃など務まらないのではないか。そう思い、アンリエッタは俯く。


「……ふむ」


 それを見たエドワードは、庭園の木の枝を一本、拝借した。最初から折れかけ、垂れ下がっていた枝だ。

 エドワードはアンリエッタのもとに戻ると、予備動作もなく、いきなり枝をアンリエッタに向けて、真上から振り下ろした。

 アンリエッタは、咄嗟にそれを両手で挟み、止める。


「殿下! いきなり何をなさるのです!」

「――君は、強い」

「……え?」


 エドワードはくつくつと楽しそうに笑い、枝から手を離した。アンリエッタは、枝を静かに地面に落とす。薄桃色の絨毯が、少しだけ跳ね上がった。


 アンリエッタは、こんなに楽しそうに笑うエドワードを、はじめて見た。


「私も騎士に交じって鍛錬しているから、そこそこ強いはずなのだが。自信を無くすよ」

「いえ、その、殿下はお強いです。けれど、私の言った『弱い』はそういう意味ではなくて……」

「アンリエッタ」


 エドワードは、アンリエッタの名を呼んだ。穏やかに、優しく。楽しそうに。


「私は、君を逃すつもりはない。君が承諾してくれるまで、毎日君に結婚を申し込むから、覚悟しておくのだな」

「えっ……!?」


 アンリエッタの頬が、ピンク色に染まる。

 エドワードがアンリエッタにドレスを贈った時と、同じ色で。同じ温度で。

 周囲の薄桃色よりも、鮮やかに。美しく。


 エドワードは、あの時からずっと呼んでみたかった呼び方で、アンリエッタの名を囁いた。優しく、愛おしく。


「愛しているよ――アン」


 今は、アンリエッタからの返事はない。

 けれどアンリエッタの反応は、エドワードにこれからを期待させるには、充分すぎる程だった。



 〈了〉


最後までお読み下さり、ありがとうございました!

ループの謎が残っていますが、加筆することがあれば回収しようと思います。

「面白かった」「よかった」「最後まで読めたよ」など思っていただけましたら、ブクマや★★★★★で応援していただけると嬉しいです♪


追記

誤字報告ありがとうございました!

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[一言] 主人公がちゃんと言葉にしないのが1番タチが悪いなぁ。
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