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小半時ほど散歩に出ただけだと思っていたのに、酔って眠りこけているうちに数時間が過ぎていたらしい。紅茶に添えられたレモン・タルトを、サクサクのパイ生地の最後のひとかけらまで残さず食べ終えた頃には、外は暗くなり始めていた。
それだけじっくりと寝顔をアーサーに見られていたのだと思うと、今でも顔から火が出そうになるイーヴィーだったが、馬車で送るという彼の申し出はありがたく受けることにした。本当は辻馬車をひろって帰宅した方が、両親に余計な詮索をされずに済むのだけれど、彼女が着ている普段着のポケットには、お金は一ペニーだって入っていなかった。十分ほどの散歩のつもりで部屋を出てきたからだ。
「大丈夫。ご両親には、あなたに不都合が生じないように説明しますから」
笑顔で請け合ってくれた彼と、今は向かい合ってモードレッド家の立派な箱馬車に揺られている。窓の外の、すっかり暗くなった景色を眺めるフリをしながら、イーヴィーの目はこっそりと、ガラスに映り込むアーサーの横顔を鑑賞していた。
穏やかな知性を感じさせる灰色の瞳は、今は物憂げに車窓の外に向けられている。にこやかに微笑んでいるときは人懐っこさと好奇心が前面に出る彼だけれど、こうして気だるげにしていると、貴公子らしい優雅さが匂い立って――。
(なんか、色っぽい……)
「どうかしましたか?」と、彼女の視線に気づいたアーサーが、笑顔で振り返った。
(うっ!)
薄暗い馬車の中だからそう見えたのか、アンニュイな表情に不覚にもどきりとしてしまって、イーヴィーは思わず胸元を押さえた。
「いっ、いえっ、なんでも!」
(ちょっとだけ、イエ、かなり、ときめいただけです)
いくら寝不足でフラフラだったとは言え、初対面の時のことをかけらも憶えていないのが不思議でしょうがないくらい、アーサーはハンサムだ。
(そんな王子さまの前で、わたしったら……!)
玉子の親玉みたいに壁から転げ落ちて、グウグウ寝てしまった。
人の姿でなかったことが、まだしも救いか。『可愛かった』って言ってくれたし。
少し浮上しかけた気分も、問題点②に思い当たると同時に、再度ずぶずぶと沈降した。
(わたしったら、思いっきり普段着じゃないの!)
それも門外不出指定してある、ヨレヨレのお姉さまのお下がり。
今更ながらに、この格好で散歩に出てしまったことが悔やまれる。
(ああーっ、うかつ!)
お昼用の外出着なら、今年新調したばかりの薄紅色のドレスがあったのに、よりによって、パニエもへたれたさえないお古姿を彼に印象付けてしまった。
(もう手遅れなんだから、嘆いたってしょうがないわ……)
とほほ、とどんどん後ろ向きになっていく自分を涙目で叱咤しているうちに、馬車はパクストン家の玄関に横付けされた。イーヴィーの家は、モードレッド家のタウンハウスと同じチェルシー地区にあるので、馬車ならものの五分もかからない。
アーサーの手を借りて馬車を降り、玄関をくぐると、お祭りのような騒ぎが待っていた。
「おお、ベリオル卿! 何とお礼を申し上げたら良いのでしょう!」
「あなたは娘の恩人ですわ、ベリオル卿! 感謝のしようもありませんわ!」
アーサーは先にイーヴィーの自宅に使いをやって、散歩中の彼女が貧血で倒れているのを偶然発見し、彼女の意識が回復するまで自宅で介抱していた、と知らせておいてくれていた。もともと、彼女の両親はお転婆な次女が一人で外出することには慣れっこなので、イーヴィーは帰宅が遅れたことを叱られることもなく、体調を心配されるだけで済んだ。
(むしろ、『でかした!』って後でおほめにあずかりそうな予感が……)
パクストン夫妻は感謝感激大興奮の面持ちで、アーサーに馬鹿丁寧なお礼をくりかえしている。イーヴィーの心の目には、二人の顔に大書してある『良縁祈願』の四文字がくっきりと見える。おそらく後日、お礼を口実とした晩餐会への招待状が、モードレッド家に向けて発送されるだろう。
「あ、あの、ベリオル卿、今日はご迷惑をおかけしてしまってごめんなさい。それから、本当にありがとうございます」
父と母が連呼しているのを耳にして初めて、貴族のアーサーには肩書きというものがあって、それで呼びかけなければ失礼なのだと思い出した。彼は名前しか名乗らなかったし、出会った状況があまりにも常軌を逸していたので、ぽっかりと忘れていた。
玄関の外まで彼を見送る段になって、ようやく彼の肩書きを口にすることで誤魔化そうとしている自分の劣等生具合にひやひやしていると、アーサーは玄関ホールから熱い視線を送ってくる両親をちらりと見てから、少しかがんで、イーヴィーにしか聞こえない声でささやいた。
「お礼なら、後日、猫の視点から見た世界の話を聞かせてください」
「え?」
「アフタヌーン・ティーにご招待したいと言ったら、受けてもらえますか?」
「あ、は、はい、喜んで」
レシピを見せると約束したことだし、と承諾すると、彼は心からうれしそうに微笑んだ。
「それは良かった。楽しみにしていますよ。約束ですからね?」
「はい……」
彼に再会を約された時、さりげなく肩に手を添えられて、吐息が耳をくすぐるほど近くに唇を寄せられたのは、後でお母さまが言っていたような、「ロマンチックな意図」が働いていたからではなく、単に会話の機密性を保持するためだ、とイーヴィーは思っておくことにした。
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